なにものにもこだわらない/森博嗣

 

なにものにもこだわらない

なにものにもこだわらない

 

 

 最近ビミョーにマイブームな森さんが「こだわり」について語られます。

 

 確かにいろいろこだわってそうなイメージがあって、編集者としても森さんに「こだわり」を語らせたくなるキモチはイタイほど分かりますが、例によって肩透かしを喰らっています…(笑)

 

 というのも、可能な限り「こだわら」ないことにしているということなんですが、「こだわらない」ということに「こだわ」っていることになると、トートロジーだな!?みたいなことを語られているのも森さんらしい気がします。

 

 ということで、「こだわ」るということがどういうことなのかを、延々1冊かけて語られるのですが、この本を読了すると「こだわり」のイメージが随分と変わってしまいかねません。

 

 昨今の日本では「こだわり」というと、ラーメン屋のこだわりのスープみたいなのを思い浮かべて、どちらかというと良いイメージを持っている人が多いような気がしますが、そもそも「こだわ」る、ということは、「思考を放棄」してしまうことだと、指摘されています。

 

 というのも、「こだわり」というのは言ってみれば、ある一定のシチュエーションになったら、こういう選択をするということをあらかじめ決めておくということに外ならなくて、例えばラーメン屋の例えばかりで恐縮ですが、必ず味噌ラーメンを注文するということを決めておくということで、ある意味「思考停止」につながりかねない、ということで、そういうことが積み重なれば、頑迷なキャラにもなりかねないということです。

 

 確かに、何かがあるたびにキチンと思考を巡らして、何らかの選択をするというのは意外とメンドクサイところはあるとは思いますが、「こだわらない」姿勢が軽やかなライフスタイルにつながるということもあるようです。

 

 さらには、生へのこだわりなど、死生観に関するところまでハナシは発展しており、肩透かしとは言いましたが、編集者としては望外の深遠な内容になったんじゃないかと感じます。

宰相のインテリジェンス/手嶋龍一

 

宰相のインテリジェンス: 9・11から3・11へ (新潮文庫)
 

 

 これまで『インテリジェンス 武器なき戦争』から最新刊『菅政権と米中危機』まで、”知の怪人”佐藤優さんとの対談本を紹介してきた手嶋龍一さん単独の著書を手に取ってみました。

 

 サブタイトルで分かるように、アメリカにおける9.11テロへのアメリカのホワイトハウスの対応と、東日本大震災における日本の首相官邸の対応を中心に、それぞれの国とトップのインテリジェンス活動との関わりを追われています。

 

 まあ、日本の場合はインテリジェンス活動とも言えない惨状を伺わせますが、CIAやFBIといったインテリジェンス機関が整備されたアメリカであっても、首脳陣の判断によっては、そういった活動の成果である情報もムダになってしまいかねないことを示唆されています。

 

 特に、ブッシュ政権下のライス国務長官が適切にインテリジェンス情報を活用していれば、9.11のテロは未然に防げていたはずだということであり、インテリジェンス情報活用のための仕組みということも重要であることを伺わせます。

 

 それに対して日本では、当時の民主党政権における対応の拙劣さも去ることながら、インテリジェンス活動の整備自体が課題であり、そういった事情が、福島第一原発における対応に、最高司令官たる菅首相が最前線に乗り込むという異常な行動につながったという側面もあったのかも知れません。

 

 そういう反省から安倍政権による日本版NSC設立につながったのかも知れませんが、そのことが有効なインテリジェンス活動に繋がっていないことは、コロナ禍における迷走から見ても明らかであり、手嶋さんや佐藤さんのような有識者を交えた体制の整備が望まれるところです。

「天下り」とは何か/中野雅至

 

「天下り」とは何か (講談社現代新書)

「天下り」とは何か (講談社現代新書)

 

 

 地方公務員からキャリア官僚に転身し、現在は大学で教鞭を取られている中野さんがご自身のご経験も踏まえて「天下り」を語られます。

 

 ただ、あまり暴露的なハナシというワケではなく、割とプレーンに淡々と「天下り」の実態について紹介されているのですが、元々労働省の官僚だったこともあって、世間の一般的な感覚からすると多少「天下り」批判に対する同情的なスタンスが感じられます。

 

 元々、上位のポストに就けなかった官僚を省内にとどめておくよりも、実務を担う層の若手の官僚が存分に活躍できるように、外部に出すことで組織の活性化を志向していたという側面からできた来た部分があるということなのですが、税金で多数の外郭団体を作って「天下り」の受け皿を維持していたり、利害関係のある企業への「天下り」で産官の癒着が助長されたり、何か所もの天下り先から多額の退職金をせしめる元官僚がいたりと、とかくダークな側面ばかりが目立ってきてしまったようです。

 

 この本が出版されたのは、官僚の天下りを規制しようとする民主党政権が本格化する直前で、天下りの縮小を予測されていますが、結局は官僚の暗躍で天下りの規制自体は骨抜きになってしまったのは良く知られるところです。

 

 とは言え、早期に退職を強いられる官僚にとっては食い扶持を確保する必要もあり、かつ有能な官僚を活用したい部分もあるので、ただただ感情的に天下りを非難するのではなく、国民にとっても有益な方向性を探ってもらいたいところです。

ニッポンの単身赴任/重松清

 

ニッポンの単身赴任 (講談社文庫)

ニッポンの単身赴任 (講談社文庫)

  • 作者:重松 清
  • 発売日: 2005/10/14
  • メディア: 文庫
 

 

 人情的な小説で知られる重松さんが単身赴任のサラリーマンを追ったルポルタージュをまとめた本です。

 

 ワタクシ、2010年から単身赴任をしていたのですが、昨年3月末よりコロナ禍による出勤停止に伴う在宅勤務で、単身赴任に居ても仕方がないので自宅に戻り約一年間中途半端な生活を続けた挙句、とうとう会社が原則単身赴任を廃止するということで、十年に渡る単身赴任生活にピリオドを打つことになりそうなのですが、そういった感じの状況の記念と言うワケではないのですが、単身赴任についてのルポを取り上げた次第です。

 

 昨今は、ワークライフバランスがなんだかんだで、徐々に単身赴任は減りつつあって、コロナ禍で結構なコスト要因を嫌う企業がどんどん単身赴任を止めつつあるようですが、この本が執筆されたのは2000年前後という、バブル期のイケイケの時代はしぼみつつも、まだまだ社員をコキ使おうという空気が横溢していた頃で、単身赴任なんて当たり前だった時代のレポートとなっています。

 

 単身赴任というと、自由になって赴任先で好き勝手に遊ぶ人もおられるようですが、割とこの本ではマジメな人を扱っているようで、”単身不倫”については最終章でちょこっと扱っているだけで、読み物としてはそういうドロドロした感じのモノがオモシロいのかも知れませんが、個人的には単身赴任者ならではのココロのヒダみたいなものが感じられるこういう作風の方がありがたかったです。

 

 モチロン、単身赴任で家族と離れるのは寂しいですし、一人で生活する不安もありますが、ただただそういう寂寥感に苛まれるのも耐え難いですし、せっかくそういう機会があって赴任先に来たんであれば、それはそれなりに生活を楽しまなければ損というか、身が持たないというか、そういうビミョーな心もちを多くの人がお持ちのようで、そういうオジさん(一部女性も取り上げられていますが…)らしからぬココロの揺れというのにかなり共感です。

 

 この本では、それぞれのエピソードについて後日談が紹介されているのですが、多くの人が自宅に戻ることになっているのを、それはそれでウレシいのですが、どこか赴任先での生活に名残を感じていらっしゃるのが、今そういう境遇に置かれている身としては、ムチャクチャ共感できます。

 

 単身赴任で家族のキズナが深まるというのもワタクシに関する限りナットクですし、料理のレパートリーが増えるなど、一定のメリットもアリ、10年もいると最初から分かっていれば全力で拒否しますが、2年位であれば是非とも体験すべきなんじゃないかと思った次第です。

なぜ少数派に政治が動かされるのか?/平智之

 

 

 タレントやDJなどの活動を経て2009年に当時の民主党から立候補して衆議院議員となり1期だけ国会議員を務められた筆者が、日本における”民主主義”の欺瞞を語られた本です。

 

 この本が出版されたのが2013年で、この本の中で語られている内容は民主党政権時代のことが多いので、この本の主題である「少数派」による支配は、今振り返ってみると自民党に政権が戻って安倍政権の長期化によって、より酷くなっているように見えます。

 

 原発廃止や保育所拡充、租税負担の軽減など、日本国民の多くがそちらを望むに違いないと思える政策が、多数の支持によって政権を成り立たせるはずの与党によって取り入れられないというのは、よく考えてみれば不思議なことですが、この国では一般的な投票者よりも、既得権益を持つ少数派の方が与党に対する影響力が強いらしく、より少数派の利益に利する方向に向いていってしまう傾向が強いようです。

 

 その原因として多くの日本国民がネガティブ・サイレント・マジョリティという積極的に自身の意見を投票活動に結び付けることがないことだと指摘されています。

 

 最近でこそSNSであからさまな偏向に対して反対を表明する人が増えているものの、あまり肝心の投票行動には結びついていないようで、やはり既得権益を持つ少数派はそのまま、自分たちに都合のいい政策を実現してくれる官僚や政治家と(最近は大手マスメディアもその一味と言えるかも知れません…)強固な政策実現のためのシステムを維持したままです。

 

 安倍~菅政権でそういう歪みは覆い難いモノになってしまっており、それまで政権を支えていた、なんとなく安定しているように見える経済もコロナ禍でフッ飛んでしまい、次の国政選挙で日本国民はネガティブ・サイレント・マジョリティではなくなるのでしょうか…

 

しくじらない飲み方/斎藤章佳

 

 

 ケースワーカーとしてアルコール依存症を始めとする様々な依存症に関わってきた方が紹介されるアルコールとの付き合い方です。

 

 どちらかというとメインのタイトルよりも、副題である『酒に逃げずに生きるには』の方が、この本でおっしゃりたいことをよりよく表されているように思えます。

 

 アルコール依存症の治療では、よく「なぜ飲んだのか?」ということを聞かれるということなのですが、その問いに対する答えはおそらく「ない」んじゃないかということを指摘されていて、どちらかというと「なぜ飲む必要があったのか?」と問う方が本質的なのではないかと指摘されています。

 

 どっちも同じように聞こえるかもしれませんが、お酒を飲む時に多くの人は何らかのストレスを抱えていること多く、言ってみれば問題を先送りするためにお酒を飲んでいるという側面があるということで、結局そのお酒を飲ませることになった原因と向き合わなければ、依存症だということを認識したとしても自ら飲酒をやめることは困難だということです。

 

 しかも昨今ストロング系のチューハイという依存状態につながり易いモノが普及しており、依存を認識すれば、何らかのカタチで支援を求める必要があるということです。

 

 ”支援”というと”治療”と思ってしまいがちですが、それだけではなくお酒を止めるもしくは飲酒量を減らすといったサポートをしてくれる様々な組織があり、実際にそれをキッカケとして依存状態から脱却できた人も少なからずいるということです。

 

 ワタクシ自身も、依存状態なんじゃないかと思えるフシがあり、この本に掲載されている自己診断なんかも見てみたのですが、ビミョーに依存状態とまでは言えないというキワキワな感じで、ウマくコントロールしないとヤバいなぁ、と改めて認識した次第でした。

糖質制限の真実/山田悟

 

 

 2年くらい前に血圧を下げたくて糖質制限に関する本を読み漁っていた時期があり、単身赴任中だったこともあって、それなりにマジメに糖質制限に取組んで、血圧には少しは効果があったものの、それよりも体重が劇的に下がって喜んでいたのですが、1年位前にコロナ禍に伴う在宅勤務ということで、一旦自宅に戻ったことで、すっかり体重も元に戻ってしまいました…(泣)

 

 で、ウチの会社では“ニューノーマル”への対応とかなんとかいって、原則単身赴任を止めるということで、ワタクシ自身単身赴任に復帰する可能性がほぼ無くなったこともあって、ちょっと自宅ベースの生活でも糖質制限を復活させようかということで、久しぶりにやる気を注入する意味で、糖質制限に関する本を手に取ってみました。

 

 いろんな本を読んでいる中で、栄養学に関する常識の転換ということについてはなんとなく窺い知っていましたが、この本はそこをメインテーマとされています。

 

 元々糖尿病の治療ではカロリー制限が治療の大きな柱になっていたということですが、いくらカロリー制限をしても病状が好転しない患者さんが多かったということで、どうやら脂質の制限よりも糖質の制限の方が効くんじゃないかということから徐々に研究が進んだようで、現在では糖質制限を治療の柱とされているところも少なからずあるようです。

 

 そういう重度の疾患を持つ人だけでなく、ワタクシどものような50代以降になると循環器系の衰えから、血糖値にあまり乱高下があると急激に老化を招く可能性が高いということもあって、できる限りそういった血糖値の上下を緩やかにしようということで糖質制限が有効だということです。

 

 とりあえずリクツは復習できたので、次は実践の方向性をおさらいできる本を探しましょうかね!?