真田丸の謎/千田嘉博

 

 

 城郭考古学の専門家が「真田丸」を語ります。

 と言っても、昨年の大河ドラマ真田丸」放映直前の特需を狙った編集部の無茶振り企画に戸惑う著者の様子が伺えます…と言うのも、真田丸大坂冬の陣直後に、徳川方に原形を伺えないまで徹底的に滅却されて、資料もほとんど残ってなく、根拠の薄いことを語りたがらない専門家としてはなかなか扱いにくい素材のはずなんですが…

 ただ、直前に九度山に幽閉されていた時に昌幸・信繁親子監視の任務を負っていた紀州浅野家から大坂冬の陣を描いた資料が発掘されて、砦程度だと思われていた真田丸が、城郭レベルの規模があったと思われることを踏まえて、日本史上最後の戦闘目的の城郭という、ビミョーにムチャな位置づけをしたところは、笑ってやり過ごすとしましょう!(笑)

 それよりも、戦国時代初期から織豊時代を経て江戸時代に至るまでの城郭の変遷が興味深く、次第に戦闘目的から統治目的の機能を拡充していく様子が語られていて、あまり統治に携わることのなかった真田信繁が、武田家の流れを汲む戦闘的な城郭を、戦国時代の終わりとされる大坂の陣において真田丸として現出させたことは、何か象徴的な意味を持つように思わされました。