「空気」と「世間」/鴻上尚史

 

 

 以前紹介した鴻上さんの対談による共著『同調圧力』の中で共著者で「世間学」を専門にされている佐藤直樹がこの本を「世間学」の傑作として絶賛されていたので手に取ってみました。

 

 『同調圧力』の中で、日本において同調圧力が強く働くのは「世間」の「相互監視」による抑制が働いたからなのではないかという指摘がありましたが、この本はそういう「世間」の実態と、元々限られたコミュニティである「世間」が構成員の間で共有している暗黙の了解とも言える「空気」によって相互支配みたいな状態を作っていたことを指摘されています。

 

 ただ、昨今会社や隣人の間においても、以前のような「世間」と言える程のつながりは希薄になってきているにも関わらず、「空気」を読まないことを「KY」といって蔑んだりするような状態になるのか!?というのが、言われてみれば不思議なんですが、そういう考察をされています。

 

 「世間」における相互監視みたいな現象は日本特有のようにも思えますが、西欧でもずっと以前には「世間」的なモノがあったようなのですが、唯一神との直接のつながりということを重視するキリスト教の普及に伴い、唯一神以外の支配とも言える「世間」による実質的な支配状態を徹底的に叩き潰したことが、西欧社会における「世間」ではなく「社会」とのつながりを顕著にしたということで、ある意味「世間」での相互監視と言うのは人間の本来の姿に根ざしたモノとも言えるのかも知れません。

 

 ただ、ネット空間とか不特定多数でありながら閉じた世界である「世間」を形成するような現象もうかがえて、そういった現象が悲劇的な犯罪にもつながっているということも指摘しておられて、何かそういう囚われがあった時の逃げ場を確保しておかないと、そういう悲劇に見舞われる可能性も無きにしも非ずだとおっしゃいます。

 

 単純に、1つの「世間」に拘泥されないということなんですが、意外と「世間」の目を気にする人は、外の世界へ意識がいかない人が多くて、それが故に極端な行動につながるということなんですが、いくつか「世間」を持つとか、突き抜けて「社会」とのつながりを意識するとか、狭い「世間」にこだわり過ぎないことを常に意識しておいた方がいいようです。