”切り口”で読ませる日本史本の河合センセイですが、今回のテーマは「元殿様の明治」です。
選択の意図は明確にはされていないのですが、選ばれた殿様の多くは徳川家関連だったり、いわゆる佐幕藩の殿様がほとんどで、倒幕に加わった側の殿様といえば、土佐藩の山内容堂くらいで、それでもかなり倒幕にかかわった藩の中ではかなり慶喜に同情的な立場をとっていた方なので、なぜここまで徳川寄りになったのかは興味があるところです。
いきなり冒頭で取り上げられるのが、最後には新政府側に徹底的に血祭りにあげられることになる、旧会津藩主、桑名藩主の松平容保、定敬兄弟だというところが、なんとなく河合センセイの意図するところをうかがわせる気はしますが…
お二方、特に桑名藩主だった松平定敬は戊辰戦争で転戦している間に旧臣たちは勝手に新政府に恭順し、自身は流浪して、結局箱館戦争まで戦い続けた挙句、旧臣たちとも切り離されて謹慎を強いられたのですが、その後解放されて日光東照宮の宮司として徳川家の菩提を弔う立場になったのは、せめてもの救いだった気がします。
最も壮絶だったのが上総国請西藩主の林忠崇で、自ら脱藩してまで徹底的に佐幕の立場で箱館戦争まで戦い抜いた挙句、一時期は農民となったということです。
ただ、徳川家はモチロン、佐幕の立場で徹底的に戦い抜いた藩主でも、西南戦争終結くらいを境に、廃藩置県で大きな抵抗をすることなく領地を明け渡したこともあり、華族としてそれなりに遇されたようで、多くの殿様たちは欧米に留学しているのが印象的で、そういう意味でも明治維新というのは、世界史的にもかなり稀有な”革命”だったんだなあ、ということを、こういう”切り口”でも印象付けられた次第でした。