歴史をなぜ学ぶのか/本郷和人

 

 

 本郷センセイが語られる歴史の研究のあるべきアプローチと、そういうアプローチをとることによる歴史を学ぶ意義というモノをテーマにされた本です。

 

 以前『怪しい戦国史』を紹介した際にも、本郷センセイが歴史の研究においてストーリー性というか、因果律を重視されていることに触れられていましたが、この本ではそういう歴史を研究する上でのアプローチの方法論ゆえに、歴史を学ぶ意義がクローズアップされるのだということを強調されています。

 

 そもそも歴史学というのは、限られた現存する史料を手掛かりに、演繹と帰納といった論理的な手法を用いながら史料が存在しない部分について、ああでもないこうでもないという分析をするのが常道なはずなのですが、幸か不幸か日本では世界的には奇跡とも言える程、史料の残存が充実していることもあって、研究の主眼が文献の分析に置かれることとなり、論理的な分析が発展しなかったということがあり、引いてはそのことで教育の科目としての歴史において、文献上起こったとされる出来事を覚えることに主眼が置かれることになってしまったと指摘されています。

 

 よく歴史を学ぶ意義として、歴史から今後を生きる教訓を得るということが言われますが、ただああいうことがあって、こういうことがあったというだけでは、ああそうだったんですね…で終わってしまうのですが、本来ああいうことがあればこういう風になることが多いという蓄積があって、そういう場合の条件を研究することで今後の行く末を判断する材料となりうるということです。

 

 そういう意味でこの本で紹介されているのが、なぜ平将門源頼朝たりえなかったのか、ということなのですが、突き詰めて言えば平将門には源頼朝ほどの“正統性”がなかったということになるようです。

 

 その“正統性”というのがよくわからないところなのですが、「源氏の棟梁」だったから…というと、「ふーん」で終わってしまうところなのですが、世界史的に見ても平将門のように機を得て暴れまわって一旦成功を収めるのですが、その栄華が長続きしなかった例としてナポレオン・ボナパルトの例を引かれていて、安定的な長期政権を託すには、人々が信頼に足るような何らかの”正統性”が求められるという歴史上に多く見られる実例を元に語ると説得力が出てくるようです。(じゃあ、劉邦はなぜ漢帝国の礎を築けたのかということを聞いてみたい気はしますが…)

 

 ということで、我々の身近な生活でもそうですし、例えばコロナ禍をどう克服するかということを、過去の感染症への対応事例から教訓を得るということもあるでしょうし、そういう思考法を得るために、どう歴史を学べばいいかという思考法を得るための、格好のテキストと言えるかもしれません。