わが昭和史/半藤一利

 

 

 半藤さんというとなんでも『昭和史』に寄せれば売れるんじゃないかというサモシイタイトル設定で、ご本人が亡くなられているのでやり放題な感じですが、如何にして”昭和史の語り部”となられたのかを語られた自伝的な著書です。

 

 半藤さんご自身、多感な中学生の時期に日米戦争があって、本土空襲も目の当りにされて、頻繁に死を見て、実際に東京空襲や機銃掃射のターゲットとなったりして、死と隣り合わせとなった体験を語られていて、そういう部分も”昭和史の語り部”となられた重要な要素ではあると思うのですが、必ずしも早くからそういうことを志されていたワケではなさそうです。

 

 元々、橋の設計者を志されていたようなのですが、入学した浦和高校で周囲の優秀者に圧倒され、とは言いながら東大に入学してボートに没頭し、あと一歩でオリンピック出場を逃すというところまで活躍され、なかなか就職を決めずに、ギリギリになって教授にハッパをかけられ、ギリギリに文藝春秋に入られて編集者となられたようです。

 

 文藝春秋に入られて、すぐに黒田如水の生涯を描いた『二流の人』など歴史を題材とした小説でも知られる坂口安吾の原稿を取りに行かされ、遅筆家の安吾のペースに巻き込まれ、引き延ばしのお付き合いの中で歴史の見方を仕込まれたのが”昭和史の語り部”の原点となるようです。

 

 その後、編集者をしながら終戦の日を追った『日本のいちばん長い日』を手掛けるなど、次第に昭和史に関する著作を手掛けるようになったということなのですが、本格的に”昭和史の語り部”として、B面も含めて昭和史を語られるようになるのは64歳で文藝春秋を退社されて以降だということで、あれだけ膨大な業績をその年齢から成し遂げた精神力に驚嘆させられます。

 

 最後にフロクとして「四文字七音の昭和史」と題して、七音節の四字熟語を手掛かりに幕末以降の歴史を語るられていて、「尊王攘夷」に始まって「八紘一宇」に至るまで、不思議なくらい多くの「四文字七音」のスローガンが提唱されてきたことにオドロキ、それだけ日本人の琴線に触れるリズム感があるんでしょう…ということで、そういうスローガンが明治維新以降の勃興から日米戦争での破滅まで導いていった経緯を見ていると、為政者が「四文字七音」のスローガンを打ち出し始めたら、ちょっと気を付けた方がいいぞ、と半藤さんがおっしゃられているように感じました。