文学の読み方/さわやか

 

 

 文学好きでサブカル系の雑誌への寄稿で活躍されているライターの方が、文学へのスタンスについて語られた本です。

 

 「読み方」とありますが、どっちかというと「文学とは!?」という、そもそも文学の在り方について語られた印象が強く、「読み方」を求めてこの本を手に取ったワタクシとしても、「そこそこそこ!!!」と思いたくなるモノでした。

 

 冒頭で又吉直樹さんの『火花』が芥川賞を受賞した際の審査員のコメントや受賞後の著名人の反応が紹介されていて、ノミネート以降そもそも『火花』は芥川賞が対象とする「純文学」なのか!?という議論があったことを記憶していますが、じゃあ「純文学」って何だ!?と思った記憶もあります。

 

 そういう議論というのは『火花』に始まったことでは無く、村上春樹さんのデビュー時にもかなりの議論があったようで、その頃の文壇の反応や結局は授賞を逃してしまう芥川賞の審査員のコメントなどを紹介されていて、当時余りに斬新な村上さんのスタイルに文壇がアレルギーともいえるような反応を示して混乱されている様子を紹介されています。

 

 その混乱というのが、アメリカ文学に範をとったスタイルもさることながら、登場人物の心象風景の深奥を描こうとした従来の日本文学と比べると、どこかそういう部分をはぐらかしたような浮揚感のある姿勢に反発があったのではないかということで、明治以降の「文学」の沿革を紹介されています。

 

 その中で次第に、

  ・「文学とは、人の心を描くものである」

  ・「文学とは、ありのままの現実を描くものである」

という定義が暗黙の裡に形成されていったということで、そういうモノに合致するモノであれば、内容的に作家自身の性体験をセキララに描いた露悪的なモノであっても「文学」とされ、そういう定義から外れたモノを一段低く見る傾向が形成されたということです。

 

 ただ、そういう姿勢が日本文学の閉塞感を招いた部分もあったようで、そんな中で石原慎太郎の『太陽の季節』や村上龍の『透明に限りなく近いブルー』といった”劇薬”に芥川賞を授賞して活性化を図ろうとする動きもあり、結局芥川賞の受賞は逃したものの村上春樹の登場が、上記の文学の定義を大きく揺さぶることになるのですが、その分、文学界が活性化されたのは皮肉なことで、その後さらなる多様化によって文学のすそ野が広がった行ったところを見て、「純文学」というのは結局「錯覚」に過ぎなかったとブッた切っておられます。

 

 昨今ライトノベルケータイ小説といった新たな地平が開かれつつあり、守旧的な方々には眉をひそめる向きもあるようですが、そんな中から文学の新たな可能性を見出す向きもあるようで、ヘタに芸術性を求めるよりも、エンタメ性が強かったとしてもクオリティの高さを求めた方がいいんじゃないかというのには個人的にも賛成で、この本はある意味ちょっと外側からの大胆な視点が功を奏したのではないかという気がします。