1993年に出版された『「超」整理法』で一世を風靡した野口悠紀雄さんが中国の興隆について語られます。
日本では未だに中国を下に見たがる人が少なからずおられることにオドロきますが、中国は歴史上絶えず世界に冠たる国家であって、清朝末期のアヘン戦争以降のここ150年程が史上稀な低迷期だっただけで、長い目で見れば元のポジションに戻ったというだけに過ぎないワケで、この本ではそういう歴史的な経緯も踏まえて中国の勃興を語られていますが、一連の帝国群と昨今の中国とは、君臨の様相が異なるようです。
元々、清朝末期以降の中国の没落は、西欧諸国が産業革命などのイノベーションにより進化を遂げたのに対し、中国が新奇を遠ざけて保守的になったが故だと指摘されていて、逆に昨今の興隆はイノベーションを促すような環境が西欧諸国以上に整っていたからだとおっしゃいます。
特に、顔認証など西欧諸国では人権への配慮から取り組みにくいテーマにも、ある意味タブーなしで取り組めるようなところもあり、かなり取り組める範囲が広かったということと、デジタル人民元など、既存のインフラに捉われない取組が西欧諸国にとっては「攪乱」要因となり、よりラディカルなイノベーションを実現できたという要素があるようです。
それで取りざたされるのは中国の覇権国家への展望なのですが、野口先生は覇権国家にとって必要な要素としての「寛容さ」について言及されており、かつての中国の帝国群や10数年前までのアメリカなんかに備わっていた「寛容さ」が今の中国には欠けているのではないか、と暗喩されています。
今後、そういう「寛容さ」が備わるかどうかが覇権国家となれるかどうかの試金石のようですが、この本の出版時点ではコロナ禍が始まったばかりで、その影響については言及されていないモノの、その結果が大きく中国の行く末に影響を及ぼすことは感じておられたようで、破たんしたゼロコロナ政策などを見ていると、真逆の方向へ行っているとしか思えないのですが、ポストコロナ以降の中国の姿勢には、そういう観点で着目をしておいた方がいいようです。