生き延びるための昭和100年史/佐藤優、片山杜秀

 

 

 『平成史』に続き、”知の怪人”佐藤優さんと思想家の片山杜秀さんの対談本です。

 

 昨日の安部龍太郎さん、一連のインテリジェンスについての手嶋龍一さんとこの本の片山杜秀さんが佐藤優さんとの対談としては、佐藤さんの圧倒的な知識に圧倒されずにバランスよく感じる相手のように思えます。

 

 『平成史』に続いて、「昭和100年史」ということですが、今年が昭和元年から数えて100年目ということで、政府主催の式典があったり、色んな所で振り返りの機会があるようですが、世界に冠たる国家だった日本が敗戦でどん底まで突き落とされ、さらに経済で再び世界に冠たる国家に戻る(そして、徐々に没落する…)という振れ幅の大きな100年だったワケですが、その100年を「敗戦」「大衆」「天皇家」「日米関係」「知的遺産」という5つの切り口で100年を語られます。

 

 昨日、一昨日の2冊と比べると、「敗戦」に関する章を除けば、最近取りざたされる「新しい戦前」についての言及は希薄ですが、現在の日本を形成する上での日本の歩みにおける知られざるターニングポイントに数多く触れられていて興味深いモノとなっています。

 

 個人的に印象が強かったのが、敗戦後にマッカーサーを迎えた参謀本部の有末精三の功績について触れられていて、GHQを迎えるにあたり、徹底的にアメリカの国民性を調べ上げて、先回りして有利にコトを運んだということですが、逆に同じく敗戦国のドイツは後手に回ってけっこうヤラレたらしいのですが、こういう人がいたから占領政策も好意的なモノになったんだと感心する反面、敗戦に至るまでにこういう人の医研が取り入れられていれば…と思うと残念な気がするのも正直なところです…

 

 また、天皇家についての章で、「天皇無き右翼」ということについて触れられているのですが、高市政権の皇室についての対応を見ていると、保守もしくは右翼的な色彩の強い政権だと言われている割に、上皇様の生前退位への師匠筋である安倍政権の対応同様、結構天皇家を蔑ろにしているんじゃないか!?と感じるところが多かったのですが、そういったところに言及されているのが印象的で、支持層であると思われる純度の高い保守がそういう部分に不満を覚えないのかがフシギな気がします。

 

 などなど、昭和以降の日本を考える上で、さまざまなトリガーのなるトピックが多く、日本の来し方に想いを致す格好のテキストとなるのではないでしょうか!?

対決!日本史6 アジア・太平洋戦争編/安部龍太郎、佐藤優

 

歴史小説家の安部龍太郎さんと”知の怪人”佐藤優さんの対談による歴史本『対決!日本史』の第6弾で今回のカバー範囲は「アジア・太平洋戦争」です。

 

 この本で特徴的なのは、全体に対中、対米戦争を指す「アジア・太平洋戦争」を避ける方策はなかったのかということをその都度語られていることと、司馬遼太郎が『「昭和」という国家』で語られたことで、「定説」的に語られる昭和期の日本が辿った軌跡「異胎」とすることについて反論されていて、その遠因は明治政府の設立に至った幕末から形成されてきたモノだとされていることで、明確に「これだ!」と言われているワケではありませんが、制度設計や思想的背景に司馬さんの言う「異胎」を生み出す様々な要素をはらんでいたことを指摘されているのは興味深いところです。

 

 戦争の回避については、よく言われる国際連盟の脱退で、リットン調査団は相当日本医配慮した調査結果を出したと言われていたにもかかわらず、日本がそれを蹴って脱退を選んだことに代表されるように、それぞれの段階で対中、対米、それぞれで戦争を回避できたであろう「手段」を示されているのが興味深いところで、にも関わらずそれができなかった状況を見るにつけ、そこでそれをしていれば、何百万もの生命が無駄にならなかったのに…という想いがヒシヒシと感じられます。

 

 よく戦争の責任について、軍部特に陸軍もっと言えば関東軍に帰せられることが多い戦後の論調ですが、必ずしもそういうワケではなく、対米戦争の責任の大半は海軍に帰せられるべきモノでしょうし、それ以上に近衛文麿を始めとする政治家の態度が、生命を賭する決断ではあるにせよ、毅然として戦争を回避しようとする行動をとらなかったことには、やはり歴史的に糾弾されるべきモノだと思えます。

 

 昨日の『一寸先は闇』に引き続き「新しい戦後」に問いかけを投げかける”知の怪人”佐藤優さんの著書ではありますが、高市政権の衆院選の地滑り的大勝により「新しい戦中」になりかねない状況にある今、日本人の多くにこういった書籍を読んでもらって愚かな選択を避けるように心がけてくれることを切に願います…

一寸先は闇/五木寛之、佐藤優

 

 

 『異端の人間学』に続く、”知の怪人”佐藤優さんと五木寛之さんの異色の対談本です。

 

 前回はロシアにまつわる話題が中心となっていましたが、今回は「昭和100年」を受けて、佐藤さんが五木さんに戦前から戦中に至る時期の状況を実際にその時期に感じた肌感覚での状況を尋ねるという趣向の本です。

 

 佐藤さんが絡む対談本は、佐藤さんのあまりの知識量に、初っ端から対談相手が佐藤さんに圧倒されることが大半なのですが、この本は佐藤さんが五木さんに教えを乞うというカタチなので、そこまで佐藤さんが圧倒することはないのですが、次第に戦前、全中の事象の背景について五木さんが佐藤さんに確認するという感じで、やはり佐藤さんの博覧強記圧倒的なようです。

 

 この本は、昭和100年というマイルストーンということもあり、高市首相就任後の衆院選での地滑り的勝利を受けて、昨今取りざたされることが多くなった、戦前のような様相を呈することについて、一層現実感を帯びることになったということもあって企画されたようです。

 

 戦後は、戦争は決してやってはいけないという見解が大勢を占めていますが、戦前はむしろ真逆で、国体を護持するために対米対英戦争を辞さずといった空気が大勢を占めていて、それも国に押し付けられてのことではなく、多くの国民が「自発的」にそう考えていたことを五木さんもおっしゃっていて、その傍証として、佐藤さんの御母堂が沖縄戦の最中に、日本兵に「君は生き延びろ」と言われたことに「非国民」だと感じたというエピソードで応じられていて、そういった好戦的な姿勢が国民全体で共有されていた状況を指摘されています。

 

 そういう状況について、その当時の知識層の役割について言及されていて、積極的に拡張的な姿勢を肯定するような論調を広めることで、そういった国民的な風潮を生み出したのではないかということを指摘されていますが、高市内閣下の衆院選による大勝を受けて、国会議員やメディアも戦前を思わせる翼賛的な風潮の中、コメンテーターとされる人々も、高市政権に対して戦前の翼賛的な論調を思わせるコメントを寄せることも少なからずあり、「戦前」の色彩はより濃くなったとも思われ、それが「戦中」にならないことを切に願いますが、願うだけではどうしようもなくなりつつあるのかもしれません…

働かないおじさんは資本主義を生き延びる術を知っている/侍留啓介

 

 

 タイトルだけ見ると昨日に引き続き会社での処世術を語られた本かと思いましたが、この本は資本主義の「性質」について語られた本と言えそうです。

 

 近年、資本主義の限界について取りざたされることが多くなっているように感じますが、実はそれは最近に限ったモノではないようで、恐慌の前後などで度々語られていて、その度に脱却の方法論について語られるワケですが、結局はそれに代わる社会システムを見出すことができずに、資本主義が生き延びているということのようです。

 

 また、度々バブルが生まれてハジケることを繰り返しますが、それも資本主義の本質に根差したモノがあるということで、「より豊かに」ということを追い求めた挙句、それが限界点に達した所でハジケてしまうということのようです。

 

 そういう「もっともっと」という志向が、一定の成長志向の高い人々と相性が良く、勤勉に取り組むことで金銭的な報酬を得られる可能性が高まるという意味での「成功」に近づくということで、プロテスタント的な社会環境が資本主義と相性が良く、それが故に近代以降、資本主義を取り入れた西欧諸国が先駆けて経済的な発展を遂げて、現時点では世界を幾分リードしているということになっているようで、プロテスタントとはかかわりが薄いながらも似た性質を持つ日本人が一端を担ったのは偶然ではないというのはよく言われるところではあります。

 

 そういう「欲望」と「成長志向」みたいなものを結び付ける仕組みということで、かなりよくできた社会システムだということは間違いないのですが、それを結び付けられない個人や、やり過ぎてバーンアウトする人間が出てくることが、資本主義の性質上不可避だということはあるのですが、そんな中でタイトルとなっている「働かないおじさん」の謎ときは、ホンの少ししか書いていないのですが、そのスキマで生きる術を見出すという意味で「勝ち組」とするのもあながち間違いではないとされているのが興味深いところです。

 

 努力し続けるだけじゃない資本主義をウマく泳ぐための選択肢を提示されているということで、タイトルから想像するよりは多少難解なところは無きにしも非ずですが、かなり興味深いモノを示唆されているように感じました。

雑用は上司の隣でやりなさい/たこす

 

 

 著者は、現役のメガバンク勤務で「最速出世中」で、そのノウハウをブログで発信している方だということです。

 

 昨今、若い世代を中心に「コスパ」というコトバが取り沙汰されて、仕事においても重視する姿勢が強い人が見られるようですが、オジサンからみると相当勘違いしているな、と思える部分もあって、そういう「勘違い」を正す意味合いもあるようです。

 

 一般的に若い人たちの間で言われる「コスパ」は「最小限努力」に似た感じで、その結果の「パフォーマンス」についてはあまり考慮されていないと思われるフシがあって、結局その「コスパ」な行動によって評価を下げかねないことがあると著者は指摘されていて、この本では自分が投下した時間なり労力なりといったコストから最大限のリターンを得るということで、本来的な意味での「コスパ」と思えるモノで、必ずしも投入するコストの最小化ではなく、成果の最大化に比重が置かれているように思えます。

 

 「おわりに」で書かれているように、この本が目指すところは読者が読み返してみて「当たり前のことしか書いてないじゃん」と感じることだとおっしゃられているように、特にオフィスでの処世術的な自己啓発書の熱心の読者にとっては「あるある」な内容が多いワケですが、実際に「使える」と思えるテクニックが満載で、しかもスキルを磨いて、とか手間がかかることだけじゃなく、気構え次第ですぐに実行できるものも多く、間違った「コスパ」意識でせっかくの能力をスポイルしている若い人たちを救うという意識もあるかもしれず、参考にして「最小努力での最大成果」という正しい「コスパ」を享受してもらいたいモノです。

この国でそれでも生きていく人たちへ/森永卓郎、森永康平

 

 

 2025年1月に亡くなられた経済アナリストの森永卓郎さんと、ご子息で同じく経済アナリストの森永康平さんの『親子ゼニ問答』に続く共著です。

 

 前著を紹介した際にも言及しましたが、お父様が結構ウケ狙い的な発言をするのに対し、ご子息は結構お父様に似ずにマジメそうな感じで淡々と語られる感じなので、個人的には対談本にしてほしいところはあったのですが、対談にしてしまうと口のウマいお父様の独壇場となってしまいそうなので、この形式にせざるを得ないのかもしれませんね!?(笑)

 

 親子間でも意見が異なるところもあって、例えばお父様が「トカイナカ生活」を現代に生きるソリューションとして再三紹介されていましたが、康平さんは、それはある程度の資産がある人しかできないことだということを指摘しておられて、またご自身が実家から通勤されていた際に、長時間通勤が苦痛で、結婚してからは都心に引っ越したということを告白されています。

 

 ただ、政府の経済政策に対する批判については共通していて、康平さんはあからさまにザイム真理教批判はしませんが、財務省のスタンスからでる経済政策について、本来マクロ経済学的な観点から経済政策を考えるべきところを、国家の収支ばかりに注目するというミクロ経済学的な視点に終始していることが故に、国民のための経済政策になっていないことを指摘されていて、言ってみればお父様がおっしゃっていることの理論的な補強をされているようにも映って、少し微笑ましく思えます。

 

 お父様のような押し出しはなさそうなので、そういった影響力の行使というのはなかなか難しいんでしょうけど、康平さんには淡々とよりよい経済政策について提言を続けてもらいたいモノです。

日本人「総奴隷化」計画1985-2029/森永卓郎

 

 

 昨年1月に亡くなられた経済アナリスト森永卓郎さんの「遺言」シリーズで、概ねおっしゃられていることは、『ザイム真理教』『書いてはいけない』と同様で、財務省のやり口や日航123便の自衛隊による「撃墜」についての内容なのですが、特に日航123便の件については、自衛隊の「撃墜」を知ったアメリカが、それが知れたら当時防衛費GDP比1%を越えようとすることについて批判が集まっていた中で、収拾がつかなくなるということで、ボーイングのせいにしようというハナシに日本政府が乗っかって、借りを作ってしまったが故に、1985年のプラザ合意につながり、その後空前の円高を招き、そのことが遠因となって30年以上にもわたる不況となり、日本の産業が国際的な競争力を無くすに至ったということで、当時の中曽根内閣は「国を売った」と言っても過言ではなかったと糾弾しています。

 

 あとは財務省の庶民を締め上げて江戸時代以上という重税を課す一方富裕層については、様々なアメとムチを駆使して、自分たちの天下り先をセッセと作るということで、森永さん死去の前後には反財務省デモなどが見られましたが、それもあっという間に影を潜め、森永さんが生前期待していたという高市内閣が実現したモノの、積極財政および減税は骨抜きにされつつあるということで、いよいよ「ザイム真理教」が盤石になっていくのでしょうか…