雑用は上司の隣でやりなさい/たこす

 

 

 著者は、現役のメガバンク勤務で「最速出世中」で、そのノウハウをブログで発信している方だということです。

 

 昨今、若い世代を中心に「コスパ」というコトバが取り沙汰されて、仕事においても重視する姿勢が強い人が見られるようですが、オジサンからみると相当勘違いしているな、と思える部分もあって、そういう「勘違い」を正す意味合いもあるようです。

 

 一般的に若い人たちの間で言われる「コスパ」は「最小限努力」に似た感じで、その結果の「パフォーマンス」についてはあまり考慮されていないと思われるフシがあって、結局その「コスパ」な行動によって評価を下げかねないことがあると著者は指摘されていて、この本では自分が投下した時間なり労力なりといったコストから最大限のリターンを得るということで、本来的な意味での「コスパ」と思えるモノで、必ずしも投入するコストの最小化ではなく、成果の最大化に比重が置かれているように思えます。

 

 「おわりに」で書かれているように、この本が目指すところは読者が読み返してみて「当たり前のことしか書いてないじゃん」と感じることだとおっしゃられているように、特にオフィスでの処世術的な自己啓発書の熱心の読者にとっては「あるある」な内容が多いワケですが、実際に「使える」と思えるテクニックが満載で、しかもスキルを磨いて、とか手間がかかることだけじゃなく、気構え次第ですぐに実行できるものも多く、間違った「コスパ」意識でせっかくの能力をスポイルしている若い人たちを救うという意識もあるかもしれず、参考にして「最小努力での最大成果」という正しい「コスパ」を享受してもらいたいモノです。

この国でそれでも生きていく人たちへ/森永卓郎、森永康平

 

 

 2025年1月に亡くなられた経済アナリストの森永卓郎さんと、ご子息で同じく経済アナリストの森永康平さんの『親子ゼニ問答』に続く共著です。

 

 前著を紹介した際にも言及しましたが、お父様が結構ウケ狙い的な発言をするのに対し、ご子息は結構お父様に似ずにマジメそうな感じで淡々と語られる感じなので、個人的には対談本にしてほしいところはあったのですが、対談にしてしまうと口のウマいお父様の独壇場となってしまいそうなので、この形式にせざるを得ないのかもしれませんね!?(笑)

 

 親子間でも意見が異なるところもあって、例えばお父様が「トカイナカ生活」を現代に生きるソリューションとして再三紹介されていましたが、康平さんは、それはある程度の資産がある人しかできないことだということを指摘しておられて、またご自身が実家から通勤されていた際に、長時間通勤が苦痛で、結婚してからは都心に引っ越したということを告白されています。

 

 ただ、政府の経済政策に対する批判については共通していて、康平さんはあからさまにザイム真理教批判はしませんが、財務省のスタンスからでる経済政策について、本来マクロ経済学的な観点から経済政策を考えるべきところを、国家の収支ばかりに注目するというミクロ経済学的な視点に終始していることが故に、国民のための経済政策になっていないことを指摘されていて、言ってみればお父様がおっしゃっていることの理論的な補強をされているようにも映って、少し微笑ましく思えます。

 

 お父様のような押し出しはなさそうなので、そういった影響力の行使というのはなかなか難しいんでしょうけど、康平さんには淡々とよりよい経済政策について提言を続けてもらいたいモノです。

日本人「総奴隷化」計画1985-2029/森永卓郎

 

 

 昨年1月に亡くなられた経済アナリスト森永卓郎さんの「遺言」シリーズで、概ねおっしゃられていることは、『ザイム真理教』『書いてはいけない』と同様で、財務省のやり口や日航123便の自衛隊による「撃墜」についての内容なのですが、特に日航123便の件については、自衛隊の「撃墜」を知ったアメリカが、それが知れたら当時防衛費GDP比1%を越えようとすることについて批判が集まっていた中で、収拾がつかなくなるということで、ボーイングのせいにしようというハナシに日本政府が乗っかって、借りを作ってしまったが故に、1985年のプラザ合意につながり、その後空前の円高を招き、そのことが遠因となって30年以上にもわたる不況となり、日本の産業が国際的な競争力を無くすに至ったということで、当時の中曽根内閣は「国を売った」と言っても過言ではなかったと糾弾しています。

 

 あとは財務省の庶民を締め上げて江戸時代以上という重税を課す一方富裕層については、様々なアメとムチを駆使して、自分たちの天下り先をセッセと作るということで、森永さん死去の前後には反財務省デモなどが見られましたが、それもあっという間に影を潜め、森永さんが生前期待していたという高市内閣が実現したモノの、積極財政および減税は骨抜きにされつつあるということで、いよいよ「ザイム真理教」が盤石になっていくのでしょうか…

発言禁止/森永卓郎

 

 

 昨年(2025年)1月に亡くなられた経済アナリストの森永卓郎さんが次第にテレビメディアからハブられていった過程について語られます。

 

 ご自身では、3段階で発言のトーンを変えられてきたとおっしゃられていて、

  第1段階として、子どもが成人した時期

  第2段階として、自身が年金受給できるようになった時期

  第3段階として、2023年にステージ4のがガン宣告を受けた時期

ということで、段々と発言内容に忖度を無くしていき、どうせすぐに死ぬんだからこれだけはブチ撒けてから逝きたいというモードになった結果、多くのテレビメディアからは声がかからなくなり、最後にはテレビメディアへの出演は死の前日まで続いた『がっちりマンデー』のみになったということです。

 

 これまでの『ザイム真理教』『書いてはいけない』といった著書でも、これを書いたらハブられると予告しながらのことなので、予定通りのプロセスではあるようなのですが、財務省、ジャニーズ事務所、官邸などの意向の反することを意見として表明すると干されるということを示されています。

 

 同じく財務省配下の国税庁の出身でありながらアンチ財務省の論陣を張る大村大次郎さんの『朝日新聞が財務省の犬になった日』なども引用しながら、財務調査をチラつかせながら大手メディアさえ屈服させ、国民のだれが選んだワケでもないのに国民の代表たる国会議員よりも権力持つことになったということを指摘されていて、こんなのおかしいでしょ!?と声をあげて逝った(残された家族に悪影響はないのか心配にはなりますが…)勇気に感謝するとともに、そんな人がいなくなった後、どうなってしまうんだろう…という気になってしまいます…(大村さん、ガンバって!!)

グルメ外道/マキタスポーツ

 

 

 以前、『すべてのJ-POPはパクリである』を紹介した、サブカル関連のライターとしても知られるマキタスポーツさんですが、今回のテーマはB級を中心としたグルメについての本です。

 

 ご自身で料理もされるようで、自作、外食関わらず多少時折大いに歪んだ食に関するこだわりが、ビミョーにあるあるなのが興味深いところです。

 

 ラーメンブーム以前にも相当ラーメンにこだわって、いっぱしの「ラーメン評論家」を気取っていたということを自虐的に語られていて、青葉が一世を風靡し、本格的なラーメンブームが到来して以降、そういったとがった「風潮」に疲れた部分もあったということを、マキタスポーツさんほどではないにしてもラーメンブーム以降の潮流を追いかけて、お歳のせいかそういう行動も厳しくなってきたワタクシも同年代だけにわかる気がします。

 

 何というかグルメって、あまり興味がない人にとってはビミョーどころか多いにメンドクサく見えることが多いと思いますが、そういうメンドくさいことを積極的に楽しんでいることが「こだわり」につながるんでしょうね…

ぼくたちはどう老いるか/高橋源一郎

 

 

 以前、『一億三千万人のための『歎異抄』』を紹介した高橋源一郎さんですが、この本では「老い」について語られます。

 

 第一部では、哲学者の鶴見俊輔さんの『もうろく帖』に沿って、自身の「老い」の進行について語られ、第二部では、漫画家のハルノ宵子が『隆明だもの』で、父で文学評論家で、吉本ばななさんの父でもある吉本隆明さんの介護についての語られた内容と、有吉佐和子さんがまだそれほど「痴呆」の実態がそれほど広く知られていなかった1972年に出版して社会現象とも言えるインパクトを及ぼしたと言われる『恍惚の人』の内容に沿って、老いていく人の家族にとっての「老い」を語られます。

 

 そもそも「老い」というのは、多くの生物にとって自然現象であり、徐々にカラダや知能が衰えていくというのは、何らかの意義があってもたらされているモノだということを指摘されていますが、多くの人にとって自分が直面すると、得てして抗いたくなってしまうのですが、如何にしてそれを受け入れていくのか、ということについて語られていて、第一部の鶴見さんは、それ程抗うことなく淡々と受け入れている印象があるのですが、それでもこれまで意識していなかった「老い」を発見するたびに、驚きというかショックみたいなモノを感じているのは間違いなく、受け入れるのはそれほどカンタンなことではないことを指摘されています。

 

 周囲の家族にとっても「老い」は少なからぬインパクトをもたらすということで、特に痴呆とも言える症状が現れた場合、ショックを受けるだけでなく、煩わしさももたらす可能性が高いということで、介護しなくてはならない状況になった場合に疲弊してしまうことも少なからずあるということで、事前からそれなりの覚悟をしていなければ、ヘタをすると家族の崩壊すら招きかねないことは忘れてはならないようです。

 

 我々は上昇することは色々と学ぶ機会が多いのですが、下降していくことについては、どうしても積極的に振れようとするのは稀であり、どちらかというと避けようとしてしまいがちですが、受け入れるためのココロの準備の必要性を、どこかアタマの片隅に入れておいて法がいいんじゃないかということを痛切に感じさせるモノでした。

 

大大阪という神話/長崎励朗

 

 

 大阪出身の社会学者の方が「大阪」について語られた本です。

 

 「大大阪」という、関東大震災の際に一時期大阪圏の人口が首都圏を越えた時期に、盛んに言われたらしいんですが、関西人とくに大阪人はやたらと独自性を強調することが多いように感じられる方が少なくないと思うのですが、確実に「画一化」の波に飲み込まれていっている状況を様々な事例を通して語られています。

 

 冒頭の2章でNHK大阪放送局における取組について語られているのですが、コチラでも大阪の独自色を出そうとする取り組みが色々と行われていったということなのですが、特にアナウンスなどにおいて徐々に関西弁的な要素が淘汰されて行っていた状況について語られていますし、最も「大阪的」なモノのひとつと思われる漫才においても、結構昔から東京的なネタを交えていたことなど、必ずしもその内容は「大阪的」だったとは言い切れないことを指摘されているのに驚きます。

 

 もう一つ印象的だったのが、天王寺公園でかつて多く繰り広げられていた「青空カラオケ」で、ワタクシなどすぐ横の天王寺動物園より、ずっと興味深い「動物」が生息していると面白がっていたのですが、次第にそういった雑多で下世話な「文化」は淘汰されてしまい、大阪も「均質化」の波に飲み込まれてしまったということのようですが、確かに通天閣のふもとのあたりも、ずっと昔に比べると「フツー」になってしまったなぁ、とちょっと寂しさを思い起こされた次第です…