1973年に生まれて/速水健朗

 

 

 サブカル系を中心にかなり幅広いジャンルの著作で知られる著書が、ご自身の生まれである1973年からの半世紀を振り返るという趣旨の著書です。

 

 ワタクシより少し下の世代で同世代と言えるのですが、ワタクシがギリギリバブル崩壊以前に就職したのに対し、バブル崩壊後の就職となる、いわゆる超氷河期に突入した「ロスジェネ」と言われる世代となり、そういう意味では同じ現象を見ていても全く見える景色が違うかも!?ということで、興味深いところで、バブル華やかなりし頃も通り過ぎられてはいるワケですが、どこかその描写も退廃的な匂いを感じさせます。

 

 ただ1973年生まれというと、イチロー中村紀洋松中信彦堺雅人深津絵里、田村淳と、イチローを除けば、超スーパースターというよりも、どこかシブい輝きを放つ面々が並ぶのが象徴的な気もします。

 

 この50年の最大の変革としては、やはりネットとスマホの拡大だとは思うのですが、パソコンの萌芽から、iPhoneにおける写メの発展など、割とナナメからの視点でその歴史を追っているところが「らしい」という気がします。

 

 ということで、かなり読む人の立場や置かれた状況によって、かなり読み方の異なる本なんじゃないかとは思うのですが、それぞれの愉しみ方ができる興味深い本なんじゃないでしょうか…

うまくいっている人は朝食前にいったい何をしているのか/ローラ・ヴァンダーカム

 

 

 寄る年波か、最近当初よく取り上げていた成功本的なモノを取り上げることがメッキリ減ってしまいましたが、久しぶりにそういう本を紹介したいと思います。

 

 朝活じゃないですが、成功本の中には朝の時間を有効活用して…みたいな本が多々あって、パワーブレックファストみたいなことを言う意識高い系のビジネスパーソンを気取る人は多いということで、こういう本は雨後のタケノコのごとく出てくるんでしょうねぇ…

 

 とはいうモノの、そういう忙しい人って、なかなか夜も遅くて朝早く起きてということがアキレス腱になる人もいるようで、トライしたモノの挫折する人も少なからずおられるようで、そういう人のための1冊だということです。

 

 この本では朝だけではなくて、休日の有効活用についても紹介されているのですが、要はどちらも、ちゃんと何らかの意思をもって前もって何をするかということを明確に決めておくことが、挫折しないための秘訣だということで、こういう本を手に取ろうとするような「意識高い」系の人だったら、そういうおぜん立てをすればちゃんと実行できるでしょ!?ということなのかも知れません。

 

 そういうイヤミな意図じゃなくても、何らかの、楽しみだと思えるようなことを朝なり、休日なりに予定として組み込んでおくことによって、ちゃんと朝起きたり、休日もダラダラ過ごすといったことがなくなって、メリハリの利いたモノになるんじゃないかという提案には一定のナットク感があって、今までトライしたんだけど…という人は、この本をキッカケに朝活を軌道に乗せられるかもしれませんし、日々の生活にハリが出るかも知れませんよ!?

10代から知っておきたいあなたを丸めこむ「ずるい言葉」/貴戸理恵

 

 

 以前、『10代から知っておきたい女性を閉じ込める「ずるい言葉」』を紹介しましたが、そのシリーズ物の1冊のようで、今回は女性に限らず若いうちから意識しておくべき「ずるい言葉」について、ケーススタディ的に紹介されています。

 

 そういう「ずるい言葉」というのは「同調圧力」の表れとして発せられることが多い様で、冒頭で「空気を読む」ことが過度に求められる中で、その弊害について警告を発せられています。

 

 友達だからとか、みんながそう言ってるからとかといって、同じ行動を強いるというカタチで現れることが多いんでしょうけど、その「行動」にはイジメだったり、不法行為だったりすることもあるということで、そこまでいかないことであっても、気が進まないことはちゃんと断ることで、モヤモヤした気分を避けることができるでしょうし、そんなことで友達じゃなくなるんだったら、そんな友達はサッサと切ればいい…というのがこの本のスタンスではあるのですが、なかなか高校生ぐらいまでの年代の人たちからすると、孤独を恐れずに…というのはなかなかハードルが高い気もします。

 

 ただ、周囲に言われるままに流されるというのも、自分を見失うというリスクもあるワケで、そういうことを意識した上で、同調するのか断るのかを見極めるということは、アタマのどこかに置いておかないとなぁ、とは思います。

危機の読書/佐藤優

 

 

 最近、”知の怪人”佐藤優さんの読書指南が、かなり実践的というか、事象があまりに複雑化していて、余程の人でなければ読書を現実に応用することが難しくなっていると感じているのか、かなり「即物的」になってきているような気がします。

 

 この本で取り上げられているのが、

  内村鑑三『代表的日本人』

  ヨゼフ・ルクル・フロマートカ『なぜ私は生きているか』

  宮本顕治『鉄の規律によって武装せよ!』

  アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム

  手嶋龍一『鳴かずのカッコウ

  斎藤幸平『人新世の「資本論」』

の6冊で、ワタクシ自身既読なのは『人新世の「資本論」』のみと、割と古典と言える著作が多くなっている印象で、やはりそういう著作に教訓として読み取るべきものが多いということなのかも知れません。

 

 コロナ禍~ウクライナ侵攻を契機とした世界の分断という流れを受けて、やはり一番目を引くのが『民族とナショナリズム』で、コロナ禍で、それまでのグローバリズムの流れが急停止し、ロシアのウクライナ侵攻を契機として、西欧諸国とロシア、中国といった権威主義的な国家群、グローバルサウスと言われる国々との間での分断が露わになり、ナショナリズムが再び台頭してきたワケですが、そんな中でコロナ禍を契機としたと思われる黄禍論がアメリカで継続しているというのが、日本人としては気になるところですが、『民族とナショナリズム』でも青色人という概念を持ち出して、ナショナリズムにおける人種差別的な動きについての指摘があり、ある意味そういうモノは普遍的なところがあるようで、こういった本からの教訓というのも今なお有効なんだと思います。

 

 最終章に、『平成史』を共に出版した片山杜秀さんとの対談が諸州されているのですが、やはり日本におけるウクライナ支援一辺倒の状況を、ウクライナにおける「皇国史観」という概念を持ち出されて危惧されていますが、アメリカにおける黄禍論じゃないですが、あまりにアメリカ追従一辺倒で手のひらを返されたらどうなるんだろうか…と考える人が少なすぎることには、やはりちょっと気になってしまうところです…

  

ワクチンは怖くない/岩田健太郎

 

 

 コロナの感染拡大直前に、クルーズ船の感染防止のために派遣され、忖度なくあまりに的を得た指摘を連発したために、厚労省の技官にクルーズ船から追い出されたという伝説を持つ、感染症の専門医である岩田センセイが語るワクチンの効用です。

 

 コロナ禍でも露わになったように、感染症対策、特にワクチンというのは大きなおカネが動くだけあって、純粋に感染拡大防止や患者のためといった観点ではなく、利権が絡むポジショントークや、声の大きさといった政治的な色彩を帯びてくることもあって、ワクチンを受ける側としてもそういった夾雑物に惑わされずに、純粋にワクチンを受けることによってうける感染防止というメリットと、副作用の大きさというデメリットを冷静に比較した上で、前者の方が大きいときにのみ接種を受けるという科学的な態度が重要だとおっしゃいます。

 

 この本が出版されたのが2017年で、コロナ禍の影もカタチもない頃なので、コロナワクチンについての言及は当然ありませんが、子宮頸がんワクチンなど、その効用と副作用について大きな議論のあったワクチンの事例について、効用とデメリットの科学的な比較を紹介されています。

 

 ただ、難しいのはメリットとデメリットは、個人の身体の状態と価値観という相対的なモノに左右されるだけに一概に言えないワケですが、声の大きな「専門家」は得てして利権や学界におけるポジションを意識したポジショントークをしていることが多く、さらにはメディアは、多くの場合、専門的な知見に基づいた報道をしているワケではないことが多く、ポジショントークの流されたり、耳目を集めそうなことに肩入れしたりと、メリット・デメリットを判断する上ではほとんど役に立たないということをキモに銘じておいた方がよさそうです。

 

 ということで、主治医やセカンドオピニオンなど、自分が冷静な判断をできるだけの情報を自律的に集めなくてはならないというのが気にはなりますが、やはり自分のカラダを守るのは最終的には自分だという原点に立ち返ることが肝要なようです。

世間ってなんだ/鴻上尚史

 

 

 『「空気」と「世間」』や『同調圧力のトリセツ』など、かねてから「世間」がもたらす「同調圧力」について批判的な論調の著書を再三出版されてきた劇作家の鴻上さんですが、この本は週刊『SPA!』の連載のうち「世間」について語られたモノを集めたモノのうち、三部作の完結編なんだそうで、追々シリーズの既刊も紹介しようかと思います。

 

 特にコロナ禍の「自粛警察」など昨今は「世間」の「同調圧力」などマイナスの側面ばかりが取りざたされることが多いのですが、モチロン「世間」のもたらすプラス面もあるワケで、鴻上さん自身、海外での生活の機会が多いということで、電車が大体時間通りに動くことは、ある意味「世間」がもたらす「ちゃんと」しようという「同調圧力」の恩恵のわかりやすいカタチであり、そうじゃない社会に行くと、何かと不便に感じることが多いとは思います。

 

 ただ、日本においては「ちゃんとする」ということが過剰になることが多く、場合によってはコロナ禍における「自粛警察」のように暴走してしまうこともあり、ほかにもかつて周囲の世話を焼くといったメリットが都市化や核家族化などの社会環境の変遷によって失われた結果、「世間」の息苦しさばかりが残ってしまうことになったということを指摘されています。

 

 だからこそ、今こそある程度「世間」に見切りをつけて、「社会」と向き合うことが必要だということをおっしゃられていますが、どこまでそういう割り切りが浸透していくか、特に若い世代の行動に期待したいところです。

60代からの幸福をつかむ極意/齋藤孝

 

 

 齋藤孝さんが「20世紀最高の知性」と言われる英国の哲学者ラッセルの著書『幸福論』から60歳代以降のシアワセにつながるような考え方を紹介された本です。

 

 かねてから日本では幸福を感じている人が少ないと言われ続けていて、国連が毎年発表している「世界幸福度ランキング」において、大体の国では経済的な繁栄度と幸福度の高さというのが、多くの場合ある程度の相関関係があると言われている中で、最近は凋落が激しいとは言うモノの、GDPの規模は一応上から数えた方が早い日本がOECD諸国の中でも底辺と言えるランキングにあることはちょっと異様に受け取られるところがあると思えます。

 

 じゃあ、なぜそこまで日本人が「不幸」なのか、どうすれば「幸福」になれるのかをラッセルの『幸福論』から見出すというのが、この本のメインテーマなワケですが、そのことについて、ちょっとした「あきらめ」がそのヒントだと指摘されているところが興味深いところです。

 

 おカネだけでなく、世間的にも認められて、周囲にいい顔をしてなどなど、日本人は「世間」への配慮など、求めるものが多すぎて、却って幸福感を得にくくなっているということで、一定、そういう虚栄心みたいなモノを度外視して、個人的な愉しみにフォーカスすることで、かなりシアワセになれるんじゃないかということは、多くのリタイア本でも指摘されるところです。

 

 現役世代では、ある程度「世間」とのつながりを持たざるを得ないところはあると思いますが、リタイアしてしまえば気に入らない相手とは接触しなくても生きていけるという選択の幅が広がるワケで、そういうところを断ち切って、映画だったり読書だったりという桃源郷に耽溺することも可能なワケで、特にそれほど人とのつながりを求めない人だと、さらにその可能性が高まるところがあるようで、そのケの強いワタクシなんかは、それでもいいか!とついつい思ってしまいます。

 

 ということで、思い切って自分のテリトリーを限定することが思わぬシアワセにつながるんじゃないか!?というのは、個人的にはかなりツボな指摘でした。