たちどまって考える/ヤマザキマリ

 

たちどまって考える (中公新書ラクレ)

たちどまって考える (中公新書ラクレ)

 

 

 『テルマエロマエ』などで知られる漫画家であり、最近はテレビのコメンテーターとしても活躍されているヤマザキマリさんが、コロナ禍の中、ご自身にゆかりのある日本やイタリアを取り巻く状況を語られます。

 

 ヤマザキさんはコロナ禍に伴う、イタリアでのロックダウンや日本での非常事態宣言を受けて、家族が離れ離れになり、少なくとも執筆時点で会えていないということで、改めて自信を取り巻く様々な状況について思いを巡らし、その内容についてこの本で語られたということのようです。

 

 コロナの感染が拡大し始めた当初、中国での感染拡大以降、割と早いうちにイタリアでの感染が拡大したことから、日本では、スキンシップが盛んなお国柄であり、イージーゴーイングな国民性も作用したのかというような論評が広がっていましたが、実はかなりイタリア国民の感染症に対する意識は高かったようで、神経質なまでのPCR検査受診の志向が却って医療崩壊をもたらしたという側面があるようです。

 

 それと比較して、日本の自粛警察的な感染拡大の防止について、一定の効果を認めつつも、やはり日本人の”お上”の意識について言及されており、ギリシャ時代から2000年にも及ぶ民主主義の伝統があるヨーロッパ諸国と比べて、多く見積もっても明治維新以降の150年、厳密に見ると第二次世界大戦以降の75年程度しか民主主義国家としての歴史のない日本との成熟度の差が顕著になったと指摘されています。

 

 確かに、シンシアリーさんの『「反日」異常事態』を紹介した時に触れた様に、中国や韓国が、人権を抑圧してまで感染拡大を抑え込んだ事例と、”お上”の有形無形の圧力による”自粛警察”の作用で曲りなりに感染拡大がそれほどでもない日本の状況を見ていると、これらの国家はヨーロッパ諸国と比べると人権がそれほど重要視されていないんだなぁ、というのを感じざるを得ません。

 

 先日紹介したブレイディみかこさんの『THIS IS JAPAN』でも触れましたが、権力との流血を伴った戦いの末に勝ち取った民主主義とは異なり、降ってわいた民主主義という側面の否めない日本の状況が浮き彫りになってしまったとも言えそうです。

 

 現状では、ある程度日常を取り戻しつつあるので、そこまでの余裕は最早ないのかも知れませんが、コロナ禍に伴うひきこもりで、読書や映画鑑賞などによる、”振り返り”を勧められてはいるのですが、日本人にとっては自省をするには、もう少し時間が必要だったのかも知れません。