大河ドラマの時代考証などを手掛けられたことのある歴史学者の方が、古文書などを手掛かりに明智光秀の軌跡をたどった本です。
この本自体は40年以上も前の本なので、昨年の大河ドラマ『麒麟がくる』とは直接の関係はないのですが、あの斬新なラストを思い浮かべながら読んでみました。
昨年の大河ドラマの前に、明智光秀が信長に仕えるまでの足取りがあまり知られていないと言われていましたが、この本を読んでいると、ただ単に知られていないだけで、割と書状などの記録が残っていて、ある程度の確度でその推移が知れるようです。
明智光秀というとやはり、なぜ信長を討つに至ったのかということが最大の興味であり、この本もそこに収斂するようになっていくのですが、古くから議論のあるこのテーマについて、その議論について踏まえた上で、桑田さん自身の考えを披歴されています。
大きな説としては、
・怨恨説
・野望説
ということになるのですが、「野望説」については、本能寺の変の直後に、のちに細川ガラシャとして知られるようになる光秀の娘を嫁がせた細川忠興に宛てた書状に、跡目を譲ってもいいというようなことを書いているということもあり、あまりあり得ないだろうということを指摘しておられて、さらには本能寺の変直前に読んだといわれる野望を暗示した連歌についても、賢明な光秀が連歌師に悟られるようなモノを詠むとは考えにくく、のちの人が面白おかしく改変したものではないかとおっしゃいます。
それよりも、さんざん公衆の面前で面罵されたとか、それまで心血を注いで経営してきた領国を取り上げて、未だ征服していない僻地をあてがわれたとか、光秀が和平交渉をしたハシゴを信長が外して母親を殺されたことなど、まあ怨もうと思えば枚挙にいとまがないことから、積もり積もったモノが爆発したと考えても不自然ではないということが文書でもうかがえるようです。
そういうこともありますし、言ってみればベンチャー企業のトップのように革新的といえば聞こえはいいですが、型破りの信長とは肌合いが合わなかったということもあったようで、特に延暦寺の焼き討ちを始めとする僧兵との闘いでの残虐な所業は、教養人で、どちらかというと伝統を重視したとされる光秀には耐え難い部分はあったようです。
こういう風に古文書を丹念に読み解くことで歴史を紐解く作業は、どこか歴史上の人物と会話しているかのようで、楽し気でいいなぁ…とかつて考古学を志したこともあるワタクシは感じます。