橘玲さんの著書はタイミングは遅めなものの、できるだけ漏らさずフォローするようにしていて、『幸福の「資本論」』などの近作は、デビュー当初からの『マネーロンダリング』などの小説だけでなく『マネーロンダリング入門』などのビジネス書でも見られたダークなトーンが薄らいできているような気がしていることを言及したのですが、久々に初期の橘産を思わせるダークなトーンが印象的な作品と言えるかもしれません。
橘さんは再三リベラルについて取り上げられていて、昨今随分に日本においてもそういう論調が市民館を得てきていると感じますが、皮肉なことにリベラルな論調が普及してきたが故に、ネットなどを中心に陰惨なバトルが繰り広げられつつあることを指摘されています。
冒頭で橘さんは「リベラル」を”「自分らしく生きたい」という価値観”と定義されていて、実はそういうことが実現できるようになったのはつい最近のことだと指摘されています。
そういう「自分らしく生きる」ということの中には、自分が思う「社会正義」の実現ということも含まれていて、その価値観というのは当然多種多様なワケですが、中には他人のやることが自分の考える「社会正義」に合致しないということで、その撤回を求めたがることもあって、それがネットによって当人にアプローチすることも、それほど難しいことではなくなったということがあります。
そんな中で、序盤にかつてのイジメにより東京オリンピック開会式のテーマ曲の作曲担当からの降板を余儀なくされた小山田圭吾氏の事例を紹介されているのですが、そういう寄ってたかって「社会正義」を行使して、社会的に抹殺してしまおうという「キャンセルカルチャー」という現象が、リベラルが普及した結果として広まってきたことを紹介されているのですが、リベラルは、そういう現象を解決する術を持たないことも併せて指摘されていて、すべての人が過度に自由を享受することの弊害みたいなモノを露わにされています。
だからと言って、束縛に雁字搦めにされた世界に戻れるのかというと、一度自由を享受した人々をそういう境遇に戻すことは困難で、世界はとんだパンドラの箱を開けてしまっていて、多くの人はまだその重大性に気づいていないことの恐ろしさを披瀝したということのようです…