太平洋戦争を終戦に導いた外相東郷茂徳を祖父に持ち、父も兄も外交官という外交一家に生まれ、自らも”知の怪人”佐藤優さんの上司として共に北方領土問題返還に取組んだ東郷和彦さんが外務省在勤時のご経験と退官後の研究者としての取組みを交えて語られたモノになっています。
以前紹介した『戦後日本が失ったもの』でオランダでの研究者としての生活を紹介されていましたが、アメリカや台湾、中国、韓国でも教鞭を取られていたということで、東郷さん自身、外務省在勤時はソ連との外交を中心に手掛けるいわゆる「ロシアンスクール」だったこともあって、直接それらの国々との外交に携わったワケではないようなのですが、祖父の東郷茂徳さんが対米戦争との収拾に追われてA級戦犯として裁かれたこともあり、やはりそれらの国々では先の戦争に想いを致すことが多かったということで、慰安婦問題や靖国問題、東京裁判などの外交的な論点について研究者として熱心に取り組まれていたということです。
いずれの論点においても、諸外国の圧力に対して当時の外交の姿勢として対処療法的な対応に終始してしまったことを指摘されており、本来であればそれぞれの論点に対して、政府としてのベースラインや優先順位の検討を行い、段階的な交渉を行うべきであったことだとおっしゃられているのですが、どうも日本外交は伝統的に交渉におけるそういう姿勢がニガテだということがあるようで、結構な弱点になるようです。
加害者としての視点だけでなく、東京裁判や原爆投下など、敗戦国だからと言ってなにもかも丸飲みしてしまった点についても、後世に禍根を残してしまったという側面もあり、ちゃんと論点の整理を行い、譲るべきところと何があっても譲れないところを明確にした上での交渉に取組むといった、言ってみれば交渉のイロハともいえるプロセスをキッチリ守るということを徹底することが重要なのかも知れません。