スポーツウォッシング/西村章

 

 

 あまりまだ世の中に広く膾炙されているコトバではありませんが、確か東京オリンピックあたりからスポーツ誌などで取りざたされるようになった「スポーツウォッシング」について語られた本です。

 

 コトバ自体が取りざたされるようになったのはごく最近なのですが、「スポーツウォッシング」が意味する内容というのはかなり古くからあって、比較的古いところで大々的に該当するのが、ナチスドイツのプロパガンダとして開催されたと言われる1936年のベルリンオリンピックだということです。

 

 そもそも「スポーツウォッシング」というのは、「為政者などに都合の悪い社会の歪みや矛盾を、スポーツを使うことで人々の気をそらせて覆い隠す好意」だとこの本では定義されていて、冷戦時の共産主義諸国のステートアマもその表れでしょうし、モスクワオリンピックロサンゼルスオリンピックにおけるボイコット合戦もある意味該当するでしょうし、コロナ禍における東京オリンピック開催強行もあてはまるとされています。

 

 そういった状況が蔓延するのは、スポーツの持つ清廉なイメージを前面に押し出すことによって、権力者たちの欺瞞を覆い隠す効果があるからなんだということですが、実際に日本では特にオリンピックなどを頻繁にメディアで取り上げることで、ウラでひそかに国民に説明しにくい政策を進めるといったこともあるようですが、そういった「作戦」が欧米でも有効だというのがちょっと意外な気はしたのですが、程度問題であってスポーツに対するイメージというのにそれほど差がないということのようです。

 

 ただ、昨今はそれを唯々諾々と受け入れるアスリートだけではなくなってきたようで、機会あるごとにご自身の意見を表明するようになったテニスの大坂なおみ選手を始めとして、徐々にそういう動きが広がってきてはいるのですが、未だスポーツに政治を持ち込むことへのアレルギーみたいなモノが炎上を招くリスクもあるということで、未だまあまあハードルが高いようですが、逆に我々フツーにスポーツを見る側がキチンと区別して考えること自体が重要なんでしょうね…