先日紹介した齋藤センセイの『書ける人だけが手にするもの』で推薦図書として紹介されていたので手に取ってみたのですが、長年国語教育に携わられてきた方が紹介する「国語力」のつけ方についての本です。
以前、新井紀子さんの『AI vs. 教科書が読めない子供たち』を紹介した際に、AI開発の動向もさることながら、MARCHレベルの名門大学に進学した学生でも、少なからず読解力に問題を抱えている学生がいるということに驚かされましたが、この本が出版された1999年でも既に読解力の問題が顕在化しつつあったようで、その問題点と解決法を紹介されています。
この本でいう「国語のできる」というのは、本などに書かれている情報について過不足なく理解することができて、自分の考えを過不足なく書けることだと思われるのですが、いずれについても少なからぬ問題をはらんでいるということです。
特に、書くことについては、
・圧倒的にトレーニング量が不足している
・適切な題材が与えられていない
・具体的な手順の教育がされていない
ということで、やみくもに読書感想文なんかを書かせても、表現力は延びないということで、具体的な題材と手順を与えるということで、新聞の4コマ漫画が伝えていることを文章で表現するというトレーニングを紹介されています。
また、生徒たちが書いた文章を添削というカタチで、個々の生徒のレベルに応じた適切かつ具体的なフィードバックを行うことも、表現力を身に付けさせる上では必須だということですが、教育の現場ではあまり実践されていないということです。
また、読解力において、本を読む量が少ないことも問題なのですが、驚かされたのは受験する学校の過去問を対策として解くことの弊害を指摘されていることです。
作問の手間だったり、著作権の問題もあって、オリジナルの問題を作問するハードルは高いとはいうモノの、過去問をこなしていくことが読解力を向上させることよりも、情報処理のテクニックを身に付けることに主眼が置かれてしまい、あくまでも志望校への合格をターゲットとしている塾だったり親だったりは問題視しないことが多いのですが、大学に行って研究をしたり、社会に出たりして読解力の欠如で苦労するという場面が多く見られるのは、そういうことが影響しているということで、何でMARCHレベルに受かる子が読解力に問題を抱えているんだ!?というワタクシ自身が『AI vs. 教科書が読めない子供たち』を読んだ時に浮かんだギモンが氷解した次第です。
確かに伝統的な受験校では数少ない本を長い時間をかけてじっくりと読み解くという教育をされているということを聞いたことがありますが、そういう意図があったんですね…
ということで、読解力をつけるには、生徒のレベルにあった本を読んで、感想を聞くなどのフィードバックを受けるということで、徐々に本のレベルを上げていくという地道な作業しかないようで、すべての学力のベースとなる国語力の向上にはそういうプロセスは避けられないようです。