はじめての親鸞/五木寛之

 

 

 先日紹介した島田裕巳さんの『ほんとうの親鸞』は親鸞のナゾなところにフォーカスが当たっていたので、なかなか人物像みたいなものを思い浮かべることは難しかったのですが、俄然興味を掻き立てる内容だったことは変わりないので、もうちょっとわかりやすい親鸞像みたいな本をということで、全6巻にも及ぶ小説『親鸞』を手掛けられた五木寛之さんが3回の講演で親鸞について語られた内容をまとめたというこの本を手に取ってみました。

 

 小説の素材としての親鸞に取り組まれたということもあって、ご自身でも史実としてはどうなんだろうということを専門家の方にも語られて、実際には可能性が低いけれども、こう思えて仕方がないという内容も含まれているとご自身で語られているので、まんま真に受けることはできないのかもしれませんが、なんとなくこういう人だったのかなぁ、というイメージは逆に湧きやすいモノとなっています。

 

 元々、鎌倉仏教が広まるまでは僧侶というのは基本的には戒律を受けて国家のために仏典を研究するといった側面があり、戒律を受けていない聖や私度僧を除けば、「公務員」であったということですが、そんな中で親鸞はかなり優秀だったようで、かなりマジメで論理的な思考をされた方だったようなのですが、そんな中で当時の「国家仏教」が困窮する庶民の救済につながっていなかったことに矛盾を感じていたところもあったようで、そこで出会った法然の念仏を唱えることが救済につながるという考え方に共鳴したことが理解できるような気がします。

 

 念仏というと現代の我々からすると辛気臭いイメージが強いですが、当時はその節回しが流行歌のように捉えられたという側面もあったそうで、しかもそれをイケメンの僧侶が唱えるということもあってアイドル的な人気を博したという状況も見られたようで、親鸞はそういう教えである和讃を多く手掛けられたようです。

 

 さらに親鸞と言えば『悪人正機説』ですが、その「悪人」の概念が現在の我々からすると殺人や盗みなどを犯した「犯罪者」のような人々をイメージしてしまいますが、親鸞の言う「悪人」はもっと広い概念のようで、生きていく上でやむを得ない「殺生」など、キリスト教で言う「原罪」を抱えたほとんどの人々をさしているんじゃないかという解釈もあるようで、個人的には、逆にそちらの方がすんなり理解できるような気がしました。

 

 ということで、「わかりにく」親鸞を紐解くルートとして、こういうのもアリなんじゃないかという気がしました。