「世間」とは何か/阿部謹也

 

 

 コロナ禍における「自粛警察」の温床になったり、田舎に移住した人をハブるなど、とかく印象の良くない「世間」ですが、その「世間」研究の今や古典とも言える名著を手に取ってみました。

 

 「世間」についての名著だということで、社会学者の方が書かれたのかな!?と思っていたのですが、著者の阿部さんのご専門はドイツ中世史ということなのですが、なぜ「世間」に着目されたのかというと、哲学が発展していない日本で、なぜこれほどまでに欧州的な学問を受けれる素地があったのかというところに興味を持たれて、それが「世間」にあるのではないかということで、研究対象にされたようです。

 

 ということで、昨今割と否定的に見られがちな「世間」ではあるのですが、必ずしもそういう色眼鏡はお持ちではなかったようで、万葉集から明治時代に至るまでの文学に現れる「世間」を観られることで、どういう捉え方をされてきたのかの変遷を辿られています。

 

 古くは万葉集に「世間」というコトバが表れているということなのですが、その頃は「うつせみ」とかというコトバと同等に扱われていたようで、来世に対応する現世的な概念があったようです、平安時代には性的な側面もあったようで、かつ「浄土」に対応する現世の概念もあったようで、どこか俗なイメージをはらんでいたようです。

 

 さらに時代を進めて、江戸時代になって、それ以前は貴族や武士といった支配階級に独占されていた文学が庶民にも親しまれるようになり、より世俗的になった「世間」の概念が紹介されるワケですが、そのもの『世間胸算用』も書かれている井原西鶴の著作に現れる「世間」を紹介されていて、「穢土」とか「娑婆」とか、どこか「浄土」と対応した現世の概念に近いところをイメージさせるところが興味を引きます。

 

 さらには、明治維新を経て西欧文化流入を受けての、「社会」や「個人」の概念の流入を経て「世間」がどういう受け取られ方をするかについて語られているところが興味深く、英国滞在経験がある夏目漱石のとらえ方も紹介されているのですが、漱石自身は「社会」と「世間」をそれほど区別されているワケではなかったようで、その分「個人」のとらえ方もあいまいなところがあるようなのですが、時代が進んでフランス滞在を経験された永井荷風になると、より現代的に「社会」と「世間」の差異が明確感じていたようで、その分「世間」からの「個人」への抑圧も意識されるようになり、金子光晴になると、はっきりと「個人」への抑圧についての「世間」への反発が明確になっていったことを指摘されています。

 

 ということで、「世間」へのとらえ方の変遷を見ていくことで、変わらない部分と変わってきた分が明確になり、よりその実像が明らかになるということで、「古典」とされる意義が理解できるような気がします。