日本の醜さ/井上章一

 

 

 『京都ぎらい (朝日新書)』の著者として知られる方が日本の都市建築について語られた本です。

 日本人は“和”の精神がどうのこうのとか言うけれど、街並みを見ると、空気を読むとか調和だとかといったことはまったく感じることはできなくて、伝統的なヨーロッパの街並みと比べると、テンでバラバラで美意識が感じられないとおっしゃいます。

 昨今のビル建設においても、自分のところだけよければいいといった発想がアリアリだとも指摘されています。

 まあ、ここまではある程度ナットク感がなくはないのですが、フランス人は戦争が始まると、いち早く文化財の保護を優先したということを取り上げて、伝統の保護のためなら戦争に負けることも厭わないと、その姿勢を称賛されているのですが、ちょっと言い過ぎなんじゃ、と思うんですけど…

 まあ言ってみれば京都人らしいナナメからのモノの見方で不快な人はとことん不快でしょうし、ワタクシ自身もちょっとイラッとくるところがなかったワケではないのですが、このブログを継続的に見てくださっている方(そんな人がいるのか!?)は気付かれているかも知れないのですが、ワタクシ自身にもそういうモノが色濃くあるという自覚がありますので、多少に不快感を感じつつもシンパシーを感じるところがあります。

 そういえば『京都ぎらい』が未読だったのを思い出したので近いうちに手に取ってみようかと思います。(笑)

 

残酷すぎる成功法則/エリック・バーカー

 

残酷すぎる成功法則  9割まちがえる「その常識」を科学する

残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する

 

 

 橘玲さんが監訳をされているということで手に取ってみました。

 監訳者序文で書かれているのですが、これまで数々の“成功本”が出版されていますが、橘さんによると、ほとんどの本は

 1.成功者の個人的な経験に基づいたもの
 2.歴史や哲学などに基づいたもの

に分類されるということで、かついずれも、この通りにやれば成功するという証拠(エビデンス)がないということです。

 この本では、様々な“成功法則”について、実際の実例を当てはめて考えて、その有効性を検証しよというものです。

 グリッドだったり、ギブの法則だったり、引き寄せの法則だったり、これまでこのブログで紹介してきた様々な“成功法則”が取り上げられており、それぞれがどういう場合に有効で、どういう場合は役に立たないかということを様々なケースを当てはめて検証されています。

 モチロン、それを経験した人がいたはず(ウソを書いていないとすれば、なんですが…(笑))なので何らかの条件の下には実現するはずなのですが、かなりレアな“成功法則”も少なからずあるようですね…

 最後に解説で再び橘さんが登場して、日本ではまだまだですが、自己啓発本の先進国であるアメリカでは、多くの本がこういったエビデンスに基づくモノだということで、このジャンルに新たな地平が開けていくのでしょうか!?

 

サッカーマティックス/デイヴィッド・サンプター

 

サッカーマティクス 数学が解明する強豪チーム「勝利の方程式」

サッカーマティクス 数学が解明する強豪チーム「勝利の方程式」

 

 

 イングランド在住の数学者の方が、サッカーの試合に数学の手法を活用した分析を紹介されています。

 著者のデイヴィッドさんは、野球やクリケットと比べて、これまでサッカーではあまりモデル化が適用されていませんでしたが、データ収集の環境が整ってきた現在においては、十分モデル化に耐え得るだけの分析ができるようになってきたということです。

 よくサッカー戦術論で俎上に上がるポジションの配置の有効性に図形の分析が適用できたり、選手間のパスの数を把握することで戦術の問題点を分析するのに役立てたりということができるようです。

 今のところ本格的に数学的な手法がサッカーの戦術策定に活用されているワケではないのですが、少なくとも現状においても、有効な材料を提供するだけのポテンシャルはあるようで、今後、こういった数学とサッカーの融合が、十分視野に入っているということで、興味が絶えないとことです。

 

退職金バカ/中野晴啓

 

退職金バカ 50歳から資産を殖やす人、沈む人 (講談社+α新書)

退職金バカ 50歳から資産を殖やす人、沈む人 (講談社+α新書)

 

 

 “草食投資隊”の中野さんが退職後の資産形成に関して語られた本です。

 “人生100年時代”が現実味を帯びてきて、老後のための資金確保がより深刻な課題となってきていますが、それに向けた資産形成を50歳代から始めることを推奨されています。

 というのも退職金が一括で振り込まれると、どこから知ったのか、ソッコー銀行から連絡が入って、支店長にウヤウヤしく挨拶をされて舞い上がった挙句銀行に都合のいい投資契約を結んでしまって、資産を減らしてしまうことが多々あるようです。

 そうしてしまうのではなくて、中野さんが常々提唱されている積立投資を淡々と生涯にわたって続けていくことを、人生100年時代の資産確保の手段として推奨されています。

 ということで退職金に手を付けるのではなく、ちょっとずつ積立投資の原資として切り崩していくのがおススメだということです。

 個人的にちょっと目からウロコだったのが、自宅のローンの残債も退職金で完済してしまうのではなくて、継続してチョボチョボ返済していくことをススメられていて、低利で借金をしていることの“強み”を最大限生かして、退職金はあくまでも積立投資の原資として確保しておこうということみたいです。

 結構、これは意外なところを突いた絶妙な手法かも知れませんよ!?

 

組織での生き残る選手消える選手/吉田康弘

 

 

 Jリーグの黎明期にジーコとともに鹿島アントラーズで闘い、41歳まで現役を続けられた吉田さんがご自身の経験を踏まえて、サッカー選手として生き残る手法を語られます。

 ご自身は、足が速いワケでもなく、フィジカルに恵まれているワケでもないとおっしゃっていますが、それにも関わらず長きに渡ってトップレベルで選手生活を続けられたことについて、監督に求められるようになるためには何が必要なのかということを常に考えてこられたからのようです。

 またキャリア形成も戦略的に行われており、選手としての晩年にJ1からのオファーがあったにも拘わらず、のちに指導者としてのキャリアのためにいろんなカテゴリーを見ておきたいという意図で、JFLでのプレーを選択されたということです。

 やはりサッカーにおいてもアタマは有力な武器になることを体現しておられ、サッカーに限らず、自分には武器がないと嘆く前に、とことん考え抜くということにトライすべきだと痛感させられる内容でした。

 

サッカーで日本一、勉強で東大現役合格/小澤一郎

 

サッカーで日本一、勉強で東大現役合格~國學院久我山サッカー部の挑戦

サッカーで日本一、勉強で東大現役合格~國學院久我山サッカー部の挑戦

 

 

 2015年の高校サッカー選手権で準優勝した國學院久我山高校の主力選手の一人が、その翌月の慶応義塾大学の一般入試に合格したということが話題になったということなのですが、そういった選手を輩出する國學院久我山高校サッカー部の取組について、サッカーライターの小澤さんが迫ります。

 古くから高校サッカーの強豪として知られる國學院久我山高校ですが、現在総監督を務められている李済華さんが指導に携わって以来、「文武両道」を究める取組が始まったようです。

 というのも李さんは、サッカーばかりやっていたからといってサッカーがウマくなるワケではないというお考えをお持ちで、幅広い見聞を得て豊かな人格を形成することでサッカーがウマくなるための“感性”を養うことができるということで、その一環として勉強にチカラを入れるということのようです。

 そういった中で全国トップレベルの競技力を持ちながらも、有名大学に現役合格を果たすような選手が続出したのですが、それは李さんのお考えだけではなくて、そういったことを有効に機能させるための組織構築や高校生への意識づけなど、様々な施策を有機的に機能させている学校の取組はスゴイの一言です。

 その結果、選手たちも目標から逆算した行動計画を自律的に策定・遂行ができるようになり、結果にもつながっているようです。

 昨今、中学校で部活動の時間制限について取り沙汰されていますが、指導者は練習時間が短くなったことを嘆くのではなく、こういうところを参考にして、密度の濃い活動を志して欲しい所です。

 

「孤独」のすすめ/ひろさちや

 

「孤独」のすすめ (SB新書)

「孤独」のすすめ (SB新書)

 

 

 著者略歴では肩書が宗教評論家となっていますが、仏教の考え方に基づいた数多くの自己啓発書の出版でも知られる方の著書です。

 「孤独」とありますが、前面的に孤独を扱うといった感じではなくて、「孤独」を手掛かりについて語ると言った感じです。

 最初の方に、姑と折り合いの悪かった女性が、死んだら姑のいる極楽浄土ではなくて地獄へ行きたいおっしゃったことを紹介しています。

 併せてハリネズミは、カラダの針が故に寒くてもカラダを寄せ合って暖め合うことができないことを紹介されています。

 人間が素直に“暖め合う”ことができないのは、“プライド”という“針”がお互いを刺しあうからだという指摘に深くナットクさせられます。

 もう一つ印象的だったのが、仏教でいう「四苦八苦」を紹介されているのですが、突き詰めれば、すべての人間の苦しみの根源は人間の欲望に求められるということで、ある意味ラクになろうと思えば「阿呆」になれとおっしゃいます。

 「阿呆」というのは物事を解決しようと努力するのではなく、そういうものだと「明らめて」受け入れる人だということなのですが、「諦めて」ではなくて「明らめて」とされているのは、途中で投げ出すといったニュアンスではなくて、物事の可能・不可能を「明らかにする」といった意味あいが強いようです。

 「阿呆」になるということが、ポジティブだということが、ちょっと勇気をを与えてくれるところがあるかも…