人工知能はなぜ椅子に座れないのか/松田雄馬

 

 

 

 

 この本も楠木建さんの『絶対悲観主義』の中で触れられていた本で、NEC出身のAIの研究者の方が、2018年時点におけるAI研究の概要と最新の状況を紹介された内容となっています。

 

 AIの研究ということは、コンピュータのことだけでなく、人間の脳がどういったメカニズムで認識や思考を行っているかという人間工学的な知見や、人間以外の動物の思考である生命工学的な知見も必要になっているということで、この本は割と研究のディープな内容も紹介されているので、理系に苦手意識が強いワタクシにとっては難解な内容が多いのですが、それでもかなり興味深いモノとなっています。

 

 世間では、AIの進化によって現在人間が行っている仕事のかなりの割合がAIに置き換わるとか、AIが人間の思考レベルを超えるというシンギュラリティが数十年後には訪れるといったトピックがそれなりのリアリティを以って語られていますが、そういったのがどうなのかについても語られます。

 

 この本では「強いAI」「弱いAI」という概念が語られますが、ディープラーニングの進化によって、AIがある程度自律的に問題解決を行っているように見えるという側面が出てきていることは確かなのですが、それでも大本の問題設定や解決の方向性というのは人間が設定してあげないと、問題解決を始められないということに未だ変わりはなく、そういう意味で未だAIは人間の道具のレベルは脱しておらず、自らの「意志を持つ」という意味での「強いAI」の実現というのは、まだまだ到達点すら遠く巻子で見えないということのようです。

 

 そういうレベルでしかないという証左で、タイトルにある「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」について語られるのですが、そもそも椅子が腰を掛けるモノだという認識を自律的に持つこと自体が難しいということで、そういう認識を持たせるための人間の思考のプロセス自体が明確になってない以上、同様のプロセスをAIで実現するということもまた、実現へのロードマップを描くことすら困難なようです。

 

 このブログでもAIに関する書籍を多く紹介してきましたが、結局AI万能を唱えるのはアナリストみたいな人だけであり、置き換えられるビジネス側の有識者がその困難性を唱えることはまだ理解できたとしても、AIで東大合格を目指した「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトを追った『AI vs. 教科書が読めない子供たち』でプロジェクトを主導された新井紀子さんも語られているように、手段であるAIの開発者も、そこまでの可能性を今のところは否定されているように、AIの普及で人間が高等遊民のような生活を送れるということは無さそうです…