安心のファシズム/斎藤貴男

 

 

 社会派ジャーナリスト斎藤貴男さんの2004年の著書で、実は人々は支配されたがっているんじゃないか!?と思える現象について追及された本です。

 

 コロナ禍の初期に中国が感染拡大を比較的短期で抑制したこともあって、専制主義的な政権の優位性について語られることがありましたが、ヨーロッパ各国の市民革命以降、自由主義的な考え方に絶対的な価値が置かれてきたところ、その価値観にちょっとしたギモンがさしはさまれるようになったのは画期的なところともいえるワケですが、この本はその20年も前に、人々は実は、どこか自由を抑制されることを望んでいるのではないか!?という考えを提示されています。

 

 よく小学校の「自由研究」に何をしたらいいのかわからない、ということが言われた記憶がありますが、「何でもいいよ」と言われることは実はかなり人間にとって負担に思えることで、一定の強制も、他人によってはウェルカムなこともあるようで、ひと頃話題になった中国における政府の監視カメラの設置も、安全の確保のためだったら別に気にしない、という人が日本でも結構いるような気もします。

 

 実は自由主義の権化であるアメリカでも、9.11以降そういう傾向が顕著になってきているようで、飛行機の搭乗時に個人情報を照会して、テロ関連の履歴があれば確保されかねないという法律なのですが、言ってみれば「監視カメラ」とそうは変わらないところで、グローバル化による新自由主義的な思考の展開の一方、そういう「監視」をよしとするアンビバレンツが発生しているようです。

 

 そういう国家からの自由の抑制だけではなく、2004年と、まだiPhoneの初期バージョンすら発売されていない時期であるにもかかわらず、携帯電話に「支配」される将来を予測されていて、実際にほぼその通りの状況になっているなど、かなりドキッとさせられるような内容があるのですが、人間というのは一定自由を制限されることに安心感を覚えるという習性については、自覚的であった方がいいのかもしれません。