ちょうどいいわがまま/鎌田實

 

 

 諏訪中央病院の名誉院長の鎌田先生が語られる、プチわがままのススメです。

 

 かねてから『がんばらない』などムリをしない生き方を提唱される著書を出版されている鎌田先生ですが、人間関係においても、ついつい目の前の相手のことを慮る挙句、自分を押さえつけてガマンを重ね、どこかストレスを感じたり病んだりする人は少なくないことだと思います。

 

 でも、実はその目の前の相手も、それ程そういう気遣いを求めていないことも多々あるようで、結局はもう少しだけ「わがまま」になった方がお互いにキゲンよく過ごせるんじゃないか、とおっしゃいます。

 

 この本の中で、終末期にある方が思い切って自宅での最期を望んだところ、家族との親密な交わりの中での最期を迎えることができ、お互いに後悔なく最後の時間を過ごせたという事例が紹介されています。

 

 確かに交わる相手を尊重することは大事なことではありますが、それが過ぎて自分を押し殺してしまうのは、ある意味本末転倒だと言える部分あって、交わる相手にとってもあまりいい気がしないところもありますし、その相手だけでなく自分の大切にしてあげることも同じくらい大事なことで、相手にも自分にもバランスを以って気遣いすることの重要性を思い起こさせてくれる本です。

新・金融政策入門/湯本雅士

 

 

 日銀OBの方が語られる「金融政策」です。

 

 元々、2013年に『金融政策入門』という大学の講義の教科書的な著書を出版されていたようですが、その後、アベノミクスの黒田バズーカにおいて、それまでの日銀の政策の常識をことごとく覆すような政策が連発されたということで、それまで補足的にしか触れられなかった、量的緩和イールドカーブコントロールといった政策手段が、主要なモノとして取り入れられるようになったということで、改訂版を執筆されたようです。

 

 アベノミクスにおいては、あたかも官邸の政策執行機関の一つであるかのように、忠実に追随されていた黒田日銀体制ですが、元々、政府と日銀と言えば、有権者にいい顔をするために拡大的な財政政策を行いたい政権に対し、インフレの鎮静化のためにできるだけ財政政策の規模を制限したい日銀とのバチバチの対抗という図式が一般的だったようで、安倍官邸と黒田日銀のような協調路線は、あくまでもデフレ下でしかありえない稀有な風景だったようです。

 

 ワタクシ自身も外交官試験の受験勉強で財政・金融政策を始めとするマクロ経済学の基本的なところは勉強しましたが、流動性の罠やフラット化したフィリップス曲線など、「こんなこともあり得ます」という例外的な注釈として学んだ内容が、生きているウチに目の当たりにすることになるとは思いもよらなかったのですが、それに現実的に対応しなくてはいけない日銀の混乱が目に浮かぶような状況を紹介されているのが印象的です。

 

 出口の見えないデフレから、コロナ化やロシアのウクライナ侵攻を経て、急激なコストプッシュインフレとなり、スタグフレーションへの突入とも言われる中、日銀の混乱も如何ばかりかと感じますが、植田日銀がどのようにこの難局を乗り切るのか(それともコケるのか…)に戦々恐々とする想いです…

国力とは何か/中野剛志

 

 

 最近マイブームの中野剛志さんの著書ですが、この本は2008年の著書を2011年の東日本大震災を受けて、大幅に加筆修正されて新書化されたモノだということです。

 

 コロナ禍以前は、グローバリズムがもてはやされてナショナリズムというと内向きなイメージであまりポジティブに捉えられるものではなかったようですが、過度のグローバリズムは結局全世界規模でのコスト低減競争みたいになって、あまり個々の市民のシアワセにつながらないという傾向が強くみられるようになったということで、一定自国民のシアワセを守るという意味での「経済ナショナリズム」が必須となるのではないか、というのがこの本の主張です。

 

 「経済ナショナリズム」というと、近隣窮乏化政策や固有の資源の囲い込みのようなネガティブな側面が顕著だと感じますが、そんな中で中野さんは、「国家」というモノを、国家の制度や権力を示す「ステイト」と市民の集合体である「ネイション」をワケて考えるべきだと提唱されていて、国家権力の恣意的な行使ではなくて、市民の意思の集合体としての「ナショナリズム」で、国民のシアワセを最大化するという意味での「経済ナショナリズム」には大きな意義があるとされています。

 

 そういう提唱の中で、近年は存在感が低下しているケインズ的な経済政策に注目されているのが印象的で、アベノミクスの失敗によって無効論すらささやかれるようになった経済政策が、やはり一定の役割を持っていることを再認識させられます。

 

 ただ、経済政策と市民の意図というモノの整合性の確保というモノについて、個人的にはギモンに感じるところではあり、そういう意味でも有権者の投票行動による意思表明は必須だということで、国家権力に好き勝手させることの危険性を感じるモノでした…

買い負ける日本/坂口孝則

 

 

 最近、時折メディアでも企業経営に関して、お見かけるする坂口孝則さんですが、この本は元々の「本職」である企業の資材調達について、日本の没落の要因の一つとも思える調達でも諸外国の後手を踏みつつある状況について紹介された本です。

 

 グローバル化の進展により、資材調達が全世界的にフラット化される中、半導体を始めとする資材の取り合いが熾烈となっているということで、日本がかなり後手に回る場面が増えてきているということです。

 

 その要因として、モチロン日本経済の長期的な低迷を背景とした企業業績の没落の影響というモノもあるのですが、必ずしもそれだけではないようでこれまで垂直統合によるサプライチェーンの固定化に慣れていた日本企業が、グローバル化によっていきなり荒野に放り出された格好となっているという側面もあるようで、交渉力において鍛え抜かれた諸外国の企業に太刀打ちできないようです。

 

 それだけではなく、判断の遅さややたらと細かい仕様に固執するところや、過剰に品質を求めるなど、取引相手としてかなりメンドくさいということもあって、垂直統合の甘えを抱えたまま、従来であればその購買力によって大目に見てもらえたところが、丸腰のまま放り出された格好となっており、日本企業の多くが見捨てられつつあるということのようです。

 

 日本的経営と言えば、「終身雇用」「年功序列」「企業内組合」という「三種の神器」が取りざたされますが、どうもそれだけではないようで、固定的なサプライチェーンで調達の効率化を図ってきたこともその要因の一つであったようで、それもグローバル化の波に飲み込まれて風前の灯火とも言えるようで、早急な対応が不可欠だということです。

 

 ということで、最終章で「買い負け」ないための12の提言をされているのですが、トップの交渉力の向上や柔軟な設計の導入など、なかなか日本企業が取り組むことが難しそうに思えるモノが多く、まだまだ痛い目に合わないと変われないんじゃないかなぁ、と暗いキモチにさせられた次第です…

はじめての人類学/奥野克己

 

 

 人類学というと名前は、大学のパンキョーの科目で聞いたことはあっても、なかなかこういうモノだということを実感を持って知っている人は多くないのではないかと思いますが、そういう人類学の概要と沿革を紹介された本です。

 

 人類学というと、民俗学と近い概念だと思っていましたが、フランスでは人類学は民俗学と同意だとされているなど、人類学が認識されるようになった当初は語義の内容が国によって異なるといったことがあったようですが、「人類」を扱う学問として、生物学的な要素と社会学的な要素を統合した学問だと言えるようです。

 

 「人類」を扱う学問だということで、社会学同様、人類にまつわることは研究対象だということで、文化人類学だったり砲人類学だったり、いろんなジャンルを組み合わせた概念があるようですが、この本を読んでいる限りでは社会学ほどとっ散らかった印象は少なく、ある意味、あえて対象を限定してきた印象があります。

 

 「人類学」というジャンルが確立したのは19世紀だということですが、当初は文献ありきのモノだった人類学が、大きな進展を遂げたのが19世紀初頭にフィールドワークの概念を持ち込んだマリノフスキで、少数民族と生活を共にしてつぶさにその生活の在り方を検証したのが現在の人類学の基本を形成したようです。

 

 さらには、自らの価値観に合致しないモノを「野蛮」だとか「未開」だとか言ってさげすむことが多かった西欧に対して、あくまでも生活様式や価値観の違いだとしたレヴィ=ストロース構造主義的な研究も、偏見を廃した人類学の発展に大きな役割を果たしたことを指摘されているのが印象的です。

 

 また、国の中に多くの民族の生活様式が共存しているアメリカにおいて、それぞれの民族の生活様式を理解することで、共存をスムーズにするという意図もあったようで、人類学の発展にも大きく寄与したようです。

 

 そういうアメリカの研究の中で、対日戦争を見据えた日本人の気質の研究としての『菊と刀』が西欧の「罪の文化」に対する日本の「恥の文化」という概念を紹介して、対日戦争に寄与したことを紹介されており、人類学の果たす役割の大きさを指摘されています。

 

 グローバル化が進む中、より相互理解の必要性・重要性が増しており、無用な軋轢を避けるためにも、人類学の発展が期待されるところです。

首都防衛/宮地美陽子

 

 

 「首都防衛」ということですが、首都・東京がどこかから攻撃を受けるということに対しての「防衛」ではなく、主に首都直下地震からの「防衛」を取り扱った本です。

 

 以前紹介した、『南海トラフ地震』でも触れられていたように、南海トラフ地震というのは、時期の前後はあれ、これまでの歴史の周期的な巨大地震の発生状況からして、ほぼ確実に発生することだけは間違いないようで、それが首都・東京に近いところで起こる可能性も決して低くはないということで、それなりの備えをしておく必要があるワケで、直近だと1923年に発生した関東大震災を始めとした、現在の首都圏を襲った震災や、近年の大震災の教訓を踏まえた、期たるべき首都直下地震への備えを語られています。

 

 リスク管理のセオリーとして、最悪の状況を想定した上で、発生しうる事象に対して、その対策にかかるコストを想定した上で、優先順位をつけてそれぞれの対策をすべきかどうかを検討するということになるワケですが、あまりにも考えられる影響範囲が大きすぎて「最悪」の想定が困難なだけではなく、つい10数年前の東日本大震災と比較しても、社会生活を取り巻く環境の変化が多すぎて、なかなか影響範囲が想定しにくいことも対策の困難さを増幅するカタチになっているようです。

 

 東日本大震災の時にはある程度普及していたモノの、当時、それ程多くの人がスマホに深く依存していたワケではなかったと記憶していますが、現時点だと生活のあらゆる局面でスマホに依存しており、充電切れが相当深刻な影響を及ぼすことを考えると、それだけでもパニックの恐れを想定しなくてはいけないようなことも考えられます。

 

 さらには、南海トラフ地震がプレートの作用によって発生する地震ということもあって、首都直下地震だけではなく、連鎖的にプレートに沿って連鎖的に巨大地震が発生する恐れすらあり、とてもじゃないですが事前の対策を万全にするということは考えにくいところです。

 

 とはいえ、ワタクシ自身直に体験した阪神淡路大震災東日本大震災でも、ちょっとした要因が生死を分けたこともあるように、確実にリスクとなるようなことは潰しておくことが、生存の可能性を高めることもあり得るワケで、家具を固定しておきましょうとか、イザという時の非難について事前に家族とすり合わせておきましょうとか、そういうことが生死を分ける可能性があるということを平時からキモに銘じておくべきだということを、こういう内容を啓蒙することの重要性を痛感させられる本でした。

なぜヒトだけが老いるのか/小林武彦

 

 

 以前、『生物はなぜ死ぬのか』を紹介した生物学者の小林武彦産の著書で、続編的な内容のモノです。

 

 『生物はなぜ死ぬのか』で、生物はその種の進化のために死ぬということを紹介されていたワケですが、実は「老化」というのはヒトに特有なモノなんだそうで、例えばサケなどは生涯の最後に最大のミッションである産卵を、全身全霊を傾けて行うということで、心身ともに充実した状態でミッションを実行し、それが終わった時点で果てたように逝くということで、その生涯のギリギリまで精力を維持している種がほとんどだということです。

 

 じゃあ、なぜヒトにだけ「老い」というモノが訪れるのかというと、生物学的というよりも社会的な側面が影響していることが多いようで、あまり生物学的にハッキリとしたことをおっしゃっていないのに、多少モヤモヤしたモノを感じますが、まだそれだけ研究の余地があるということなのでしょう…

 

 元々、ヒト自体、生物学的な寿命は50歳代前半位だと言われているようで、同じ霊長類のゴリラなどの種は、大体それくらいの寿命ですし、女性の閉経が大体その年齢ということを鑑みても妥当だと思えるところで、科学技術の進歩の恩恵の享受といった要素がそれ以上の寿命をもたらしているようです。

 

 ただ、そういった中で社会的にベテランとして役割を果たすために「老い」があるのではないか、とこの本ではおっしゃっていますが、まあ、それは理解はできなくはないのですが、生物学的な議論の中では何か釈然としないモノが残ります…