お金の流れで見る世界史/大村大次郎

 

 

 『あらゆる領収書は経費で落とせる』で大きな話題をまいた元国税調査官大村大次郎さんですが、歴史にも造詣が深く、個人的には『お金の流れで読む日本の歴史』に深く感銘を受けたのですが、その世界史版です。

 

 どうしても教科書的な歴史では政治史ばかりが重視される傾向が強いワケですが、やはり人間の営みにおいて、おカネはトップレベルの関心事項であるワケで、それだけに表の政治史の裏側でおカネが大きく作用しているはずで、そこに脚光を当てるとより歴史がダイナミックで興味深いモノになるというのは、世界史に関する多くの著作で知られる出口治明さんも再三指摘されているということで、こういう著作が広く取りざたされるようになることには大きな意義を感じます。

 

 あとがきで、

  「国の盛衰というものには、一定のパターンがある。

   強い国は、財政システム、徴税システムなどがしっかりと整っている。

   そして国が傾くのは、富裕層が特権をつくって税金を逃れ、中間層以下にその

   しわ寄せがいくときなのでる。だから国を長く栄えさせようと思えば、税金を

   逃れる「特権階級をつくらないこと」だといえる。」

とおっしゃられているのが至言で、如何に不公平感の少ない歳入のルートを確保しておくことが、国家存続のキモだということで、古代エジプト古代ローマが当初秀逸な徴税システムの整備で繁栄を迎え、その形骸化で衰亡に至ったという象徴的なケースとして紹介されています。

 

 中には近代初頭のイングランドのように、どこが「紳士の国」なんだとツッコミたくなるような、国家あげての略奪での収益を図ったことが、産業革命以後の国家の反映の基盤を築いたとも言え、手段の善悪はあれ、歳入の確保が国家の繫栄の重要な要素であることを痛感させられます。

 

 というワケで、歴史を動かすキーとしてのおカネのパワーがよく理解できるモノとなっていますが、大村さんには、大変だということは重々理解していますが、おカネに関する酸いも甘いも見届けてこられた大村さんだからこそ語れる、おカネの面から見た通史を描いて欲しいモノだと切に願うところです…

魂の退職/稲垣えみ子

 

 

 朝日新聞社会部で「アフロ記者」として名を馳せられた名物記者である著者が、50歳にして退職された過程を紹介した本です。

 

 この方、ワタクシとほぼほぼ同年代(稲垣さんの方が少しだけ上)なので、過ごしてきた時代背景がほぼほぼ同じモノということもあって、かなり共感するところも多いワケですが、やはりバブル期の最終期に社会人経験をされているということもあって、ひと頃かなり物質主義的な生活をされてるところが目を引きます。

 

 新聞社という男性社会でかなりストレスを感じつつ会社での生活を送る中で、買い物や美食でストレスを晴らすという、バブル期育ちらしい(といいつつ、おそらく稲垣さんがそういう生活をしている時期はバブルは終焉を迎えているとは思えますが…)消費生活を送られたことを告白されていますが、高松局移動を期におカネを使わない生活に目覚め、そういった変化を期に、次第に退職へと傾いていった過程を紹介されています。

 

 やはり終身雇用にドップリつかった最後の世代としては、会社を辞めてしまうことでのその後の収入に対する不安というのはぬぐいがたいモノがあるワケで、ワタクシのような家庭持ちだけではなく、稲垣さんのようにその後、いつまで生きるかわからない生涯の糧を自前で調達するということになれば、やはり定期的に間違いなく手に入る収入というのは抗しがたい魅力なワケですが、会社の中で段々と年を取るにつれ、大多数の人にとって自己実現のようなモノが難しくなる中、できれば思ったような生活を享受したいという欲望も否定しがたいところで、多くの人が後者の意識をできるだけ気づかないフリをして、前者を優先するということになるとは思えます。

 

 そんな中で、稲垣さんは「お金をあまり使わない生活」というモノを実感したことで、退職後ミニマリスト的な著書も出版されていることでもわかるように、おカネの不安を軽減しつつ自己実現的な欲求を満たすという手段を見出したことで退職という選択をすることになっただと思われます。

 

 シングルで自分さえよければいいのでそういう選択ができるんだ、という向きもあるかもしれませんが、ホントに両立したいと思えば、そういう方法論は自ずと見出せるはずで、自己実現欲求が消し難いのであれば、それを押さえつけ続けなくてもいいんじゃないの!?という前向きな提言だったからこそ、この本はバズッたんじゃないかと思えます。

ちょうどいいわがまま/鎌田實

 

 

 諏訪中央病院の名誉院長の鎌田先生が語られる、プチわがままのススメです。

 

 かねてから『がんばらない』などムリをしない生き方を提唱される著書を出版されている鎌田先生ですが、人間関係においても、ついつい目の前の相手のことを慮る挙句、自分を押さえつけてガマンを重ね、どこかストレスを感じたり病んだりする人は少なくないことだと思います。

 

 でも、実はその目の前の相手も、それ程そういう気遣いを求めていないことも多々あるようで、結局はもう少しだけ「わがまま」になった方がお互いにキゲンよく過ごせるんじゃないか、とおっしゃいます。

 

 この本の中で、終末期にある方が思い切って自宅での最期を望んだところ、家族との親密な交わりの中での最期を迎えることができ、お互いに後悔なく最後の時間を過ごせたという事例が紹介されています。

 

 確かに交わる相手を尊重することは大事なことではありますが、それが過ぎて自分を押し殺してしまうのは、ある意味本末転倒だと言える部分あって、交わる相手にとってもあまりいい気がしないところもありますし、その相手だけでなく自分の大切にしてあげることも同じくらい大事なことで、相手にも自分にもバランスを以って気遣いすることの重要性を思い起こさせてくれる本です。

新・金融政策入門/湯本雅士

 

 

 日銀OBの方が語られる「金融政策」です。

 

 元々、2013年に『金融政策入門』という大学の講義の教科書的な著書を出版されていたようですが、その後、アベノミクスの黒田バズーカにおいて、それまでの日銀の政策の常識をことごとく覆すような政策が連発されたということで、それまで補足的にしか触れられなかった、量的緩和イールドカーブコントロールといった政策手段が、主要なモノとして取り入れられるようになったということで、改訂版を執筆されたようです。

 

 アベノミクスにおいては、あたかも官邸の政策執行機関の一つであるかのように、忠実に追随されていた黒田日銀体制ですが、元々、政府と日銀と言えば、有権者にいい顔をするために拡大的な財政政策を行いたい政権に対し、インフレの鎮静化のためにできるだけ財政政策の規模を制限したい日銀とのバチバチの対抗という図式が一般的だったようで、安倍官邸と黒田日銀のような協調路線は、あくまでもデフレ下でしかありえない稀有な風景だったようです。

 

 ワタクシ自身も外交官試験の受験勉強で財政・金融政策を始めとするマクロ経済学の基本的なところは勉強しましたが、流動性の罠やフラット化したフィリップス曲線など、「こんなこともあり得ます」という例外的な注釈として学んだ内容が、生きているウチに目の当たりにすることになるとは思いもよらなかったのですが、それに現実的に対応しなくてはいけない日銀の混乱が目に浮かぶような状況を紹介されているのが印象的です。

 

 出口の見えないデフレから、コロナ化やロシアのウクライナ侵攻を経て、急激なコストプッシュインフレとなり、スタグフレーションへの突入とも言われる中、日銀の混乱も如何ばかりかと感じますが、植田日銀がどのようにこの難局を乗り切るのか(それともコケるのか…)に戦々恐々とする想いです…

国力とは何か/中野剛志

 

 

 最近マイブームの中野剛志さんの著書ですが、この本は2008年の著書を2011年の東日本大震災を受けて、大幅に加筆修正されて新書化されたモノだということです。

 

 コロナ禍以前は、グローバリズムがもてはやされてナショナリズムというと内向きなイメージであまりポジティブに捉えられるものではなかったようですが、過度のグローバリズムは結局全世界規模でのコスト低減競争みたいになって、あまり個々の市民のシアワセにつながらないという傾向が強くみられるようになったということで、一定自国民のシアワセを守るという意味での「経済ナショナリズム」が必須となるのではないか、というのがこの本の主張です。

 

 「経済ナショナリズム」というと、近隣窮乏化政策や固有の資源の囲い込みのようなネガティブな側面が顕著だと感じますが、そんな中で中野さんは、「国家」というモノを、国家の制度や権力を示す「ステイト」と市民の集合体である「ネイション」をワケて考えるべきだと提唱されていて、国家権力の恣意的な行使ではなくて、市民の意思の集合体としての「ナショナリズム」で、国民のシアワセを最大化するという意味での「経済ナショナリズム」には大きな意義があるとされています。

 

 そういう提唱の中で、近年は存在感が低下しているケインズ的な経済政策に注目されているのが印象的で、アベノミクスの失敗によって無効論すらささやかれるようになった経済政策が、やはり一定の役割を持っていることを再認識させられます。

 

 ただ、経済政策と市民の意図というモノの整合性の確保というモノについて、個人的にはギモンに感じるところではあり、そういう意味でも有権者の投票行動による意思表明は必須だということで、国家権力に好き勝手させることの危険性を感じるモノでした…

買い負ける日本/坂口孝則

 

 

 最近、時折メディアでも企業経営に関して、お見かけるする坂口孝則さんですが、この本は元々の「本職」である企業の資材調達について、日本の没落の要因の一つとも思える調達でも諸外国の後手を踏みつつある状況について紹介された本です。

 

 グローバル化の進展により、資材調達が全世界的にフラット化される中、半導体を始めとする資材の取り合いが熾烈となっているということで、日本がかなり後手に回る場面が増えてきているということです。

 

 その要因として、モチロン日本経済の長期的な低迷を背景とした企業業績の没落の影響というモノもあるのですが、必ずしもそれだけではないようでこれまで垂直統合によるサプライチェーンの固定化に慣れていた日本企業が、グローバル化によっていきなり荒野に放り出された格好となっているという側面もあるようで、交渉力において鍛え抜かれた諸外国の企業に太刀打ちできないようです。

 

 それだけではなく、判断の遅さややたらと細かい仕様に固執するところや、過剰に品質を求めるなど、取引相手としてかなりメンドくさいということもあって、垂直統合の甘えを抱えたまま、従来であればその購買力によって大目に見てもらえたところが、丸腰のまま放り出された格好となっており、日本企業の多くが見捨てられつつあるということのようです。

 

 日本的経営と言えば、「終身雇用」「年功序列」「企業内組合」という「三種の神器」が取りざたされますが、どうもそれだけではないようで、固定的なサプライチェーンで調達の効率化を図ってきたこともその要因の一つであったようで、それもグローバル化の波に飲み込まれて風前の灯火とも言えるようで、早急な対応が不可欠だということです。

 

 ということで、最終章で「買い負け」ないための12の提言をされているのですが、トップの交渉力の向上や柔軟な設計の導入など、なかなか日本企業が取り組むことが難しそうに思えるモノが多く、まだまだ痛い目に合わないと変われないんじゃないかなぁ、と暗いキモチにさせられた次第です…

はじめての人類学/奥野克己

 

 

 人類学というと名前は、大学のパンキョーの科目で聞いたことはあっても、なかなかこういうモノだということを実感を持って知っている人は多くないのではないかと思いますが、そういう人類学の概要と沿革を紹介された本です。

 

 人類学というと、民俗学と近い概念だと思っていましたが、フランスでは人類学は民俗学と同意だとされているなど、人類学が認識されるようになった当初は語義の内容が国によって異なるといったことがあったようですが、「人類」を扱う学問として、生物学的な要素と社会学的な要素を統合した学問だと言えるようです。

 

 「人類」を扱う学問だということで、社会学同様、人類にまつわることは研究対象だということで、文化人類学だったり砲人類学だったり、いろんなジャンルを組み合わせた概念があるようですが、この本を読んでいる限りでは社会学ほどとっ散らかった印象は少なく、ある意味、あえて対象を限定してきた印象があります。

 

 「人類学」というジャンルが確立したのは19世紀だということですが、当初は文献ありきのモノだった人類学が、大きな進展を遂げたのが19世紀初頭にフィールドワークの概念を持ち込んだマリノフスキで、少数民族と生活を共にしてつぶさにその生活の在り方を検証したのが現在の人類学の基本を形成したようです。

 

 さらには、自らの価値観に合致しないモノを「野蛮」だとか「未開」だとか言ってさげすむことが多かった西欧に対して、あくまでも生活様式や価値観の違いだとしたレヴィ=ストロース構造主義的な研究も、偏見を廃した人類学の発展に大きな役割を果たしたことを指摘されているのが印象的です。

 

 また、国の中に多くの民族の生活様式が共存しているアメリカにおいて、それぞれの民族の生活様式を理解することで、共存をスムーズにするという意図もあったようで、人類学の発展にも大きく寄与したようです。

 

 そういうアメリカの研究の中で、対日戦争を見据えた日本人の気質の研究としての『菊と刀』が西欧の「罪の文化」に対する日本の「恥の文化」という概念を紹介して、対日戦争に寄与したことを紹介されており、人類学の果たす役割の大きさを指摘されています。

 

 グローバル化が進む中、より相互理解の必要性・重要性が増しており、無用な軋轢を避けるためにも、人類学の発展が期待されるところです。